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朝日新聞 太田啓之論評 2021年 5月4日=権力なき社会へのヒントに/5月5日=自然との共生 突き抜けた境地

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宮崎駿「風の谷のナウシカ」(漫画版連載『アニメージュ』1982年2月号より94年3月号)はコロナ禍の現在、私たちの生き方を超長期期的視点で考え直す最適の素材の一つである。それを素材にした太田啓之記者(朝日新聞)による2日連続の評論(大阪本社版 2021 5年月4日、5日朝刊)から多くを学んだ。専制政治家のムッソリーニに投獄されたイタリアの哲学者で共産党員のアントニオ・グラムシ(1893-1937)は獄中で「政治権力は知識人と知識産業を使い、人びとにその社会体制を肯定的に捉えさせる・・・」と書いた。私ならそれに続けて「(マスコミは)その他のことはエンタメ情報で誤魔化す手助けをしている」と記したい。が、現在では彼のいう「政治」権力は「政経権力」(政治と経済の合同権力)と置き換えて理解すればやはりグラムシの見方はメディア社会論の軸足として至言だ。

米中や日本を含め、世界中のあらゆる企業は利潤獲得を至上命題とし、マスメディアは関係社会の最大政治権力の望む体制の広報機関としてその手助けをしている。おまけに「自由」を標榜するネット空間の議論は実際には論理的思考と倫理の社会的認識過程を攪乱する役割の先陣を切っている。ところがそうした情報化社会の客観的観察と研究を目的として掲げる学会/学界の多くも日本マス・コミュニケーション学会を含め、その論理で動く傾向が少なからずあるから厄介だ。つまり現在の科学研究と学問、それも企業内だけではなく大学内の研究でも、さらには自然科学系だけではなく社会科学系でも結果として権力に迎合しないと潤沢な研究費の交付を得ることは簡単ではないし、組織内での社会的上昇階段を昇ることもむずかしいという現実にあるわけだ。

大型の実験や調査、長期にわたる継続的な研究プロジェクト等には金がかかり、社会科学系でも政府・政権政党に気兼ねし、企業論理に迎合する「研究」者は少なくない。私は同志社大学社会学研究科の院生時代、そうした権力による支配構造に抗う勇気をもった3人の教育者/研究者(和田洋一・木戸又一・鶴見俊輔)を直接の師として日々接する幸運に恵まれたから教員だけではなくジャーナリストたちが標榜するその「主張」の多くが「まずは権力への迎合」or少なくとも「権力批判は可能な限り避ける」というものであることを知っている。実際、一時的に抗う勇気を持とうとすることはあってもそれを実行するだけの実力を兼ね備えていなければ鳴かず飛ばずのうちに定年を迎えてしまうことが少なくない。しかもその率がその政経権力論理に迎合した者たちに比べはるかに多いことも事実なのだ。

本欄で素材とされた宮崎駿「風の谷のナウシカ」(漫画版『アニメージュ』1982年2月号より94年3月号)はそうした短絡的な悪弊のバカバカしさを婉曲に描いていることはいうまでもなく、私たちの生き方そのものを大げさにいえば「時空を超えて」長期的な視点から明示し皮肉っている。私自身もそのことに衝撃を受けた一人だがその原風景を宮崎がオーストラリアにあるウルル渓谷のエアーズロックから採ったといううわさが当時あった。

私はそれを耳にしたある自治体の教養講座登録者有志に案内を依頼され赤茶けた巨石からできたその現場を訪れた。英国の植民地化された原住民アボリジニの神話に登場するその「風の谷」には「神が宿る」といわれる赤茶けた巨大な岩山がある。特別許可がないとそこに昇ることができないが私たちは幸いその途中まで行くことが出来た。宮崎本人がそこを訪れたことがあるかどうかはしらないが自作マンガでは人間が自然界を食い尽くしていく末世(まっせ/道義のすたれた世の中)とその結果を壮大な構想の中で見事に描き、たしかにそうであっても不思議ではない雰囲気の中へ読者を誘うことに成功した。

その点では最近の評判作である斎藤幸平(2020)『人新世の「資本論」』の主張する「人新世」時代を誰が「看取る」のかという「落としどころのない」問題提起にも通じるところがある。が、宮崎の社会観(倫理観・歴史観・世界観)は齊藤の問題提起を含め、マルクス・レーニン主義 Marxism-Leninismによる近代的コミュニズム思想のそれをはるかに凌駕するものだと思え、彼の偉大さを改めて実感することができた。

自分自身の生き方を含め、社会のあり方をじっくりと学んでいけるヒントをこの新聞記事が与えてくれたことに改めて感謝したい。(2021年5月5日)
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朝日新聞:論壇時評 中立・公平とは 怒り・悲しみ 集めて共有を

 この4月から朝日新聞社の論壇委員会メンバーが交代となり29日の紙面でその第1回「論談時評」が掲題見出しで掲載された。今月から新しくこの時評執筆者(まとめ役)となった林香里氏(東京大教授)はかつて「内閣記者会は‘閉ざされた部族社会’」(2019年6月22日、新聞労連 第62回新研中央集会シンポジウム)と喝破した。どうみても男性優位の当該記者会運営は権力と結びつきやすい(私の既視感=デジャビュでは)。権力側は狡猾だからその仕組みを逆利用してこのところ広報担当の内閣補佐官に首相or官房長官が意のままに操れる「わきまえた」女性を配置、外部向けには男女「共生」の印象操作をしながら有力男性記者と裏取引しながらの応答による報道が現実にあってきたし今も実際に行われている。

 内閣記者会見を取り仕切る政府広報官が女性であっても現実の事例から明らかなように、当該人物が「生物学的女性」を売りにして男性中心の権力構造に迎合し出世してきた「不平等ジェンダー容認」女性にすぎないのだからなんともならない。こうした「世渡り上手」の権力迎合主義者は現実社会では男女ともにすくなくはない、そうして上昇を目指している一部女性の実態は身近な組織のどこでも見られる。しかし内実がどうであれ委員が男女同数であれば朝日新聞の時評の評価がどちらかの性に忖度することなくその本質的内容によって検証できるようになるから好ましいことではある。

 さて一般紙を発行する新聞社は私企業だから表向きには倫理綱領等に書かれた「中立・公平」「客観」etcが大事だと主張する。が、実際には「経営」が成立しなければ元も子もないから広告と合わせた企業収入と総経費との「収支計算」のプラス計算は至上命題だ。この当然のビジネス論理がどの新聞社の幹部会議でも大前提となり編集方針決定にも現実には外せない桎梏となっている。このことは提供情報が各番組とも視聴者数(測定値)が時間ごとに細かく把握できる放送ではさらに深刻で、このことはNHKと民放を問わずいえることだ(NHKでは政権や財界主流批判の抑制面が強い)。だからこの問題では当該メディアの倫理綱領等で自ら公言している「中立・公平」を保ちながら「公益に資する情報提供」とは何かの実践に大きく影響せざるを得ない。このことが現下の経営収支との兼ね合いでどの程度まで自覚され現実に実行出来ているかの真摯な議論が求められる所以である。皮肉なことにその履行には長期的にそうしたことを判断し行動できる読者・視聴者を日ごろから育てるマスメディア側の努力がカギになるし、その点での受け手側からの信頼がなければこれまで同様、「絵に描いた餅」だろう。

 平たく言えば「ジャーナリズムとは権力者/層が報じられたくないことを報じることだ。それ以外のものは広報に過ぎない」というジョージ・オーウェルの言葉が関係者全員の基本哲学となりそれが関係者全員の公益性と公共性理解の常識・基底となって発出される情報をメディアが流通させることが重要になる。そのことによってのみ、マスメディアは人びとのまともな社会観・世界観と世論形成の栄養源としての「集合的記憶製造装置」になれる。問題はそのことを押さえたメディアの公共性と公益理論を私たちはどのように構築し社会常識にしていけるのか。

 もちろん、メディア企業がビジネスとして永続するには経営力学を外した議論だけでは単なる理想論になってしまう。だから購読料では発行継続が不可能なこの朝日新聞社による「論壇」といえども社会的権力であるスポンサー/財界による広告宣伝費と政権中枢の意向に左右されないはずがない。問題はどの程度まで政財界という社会の「絶対的強者」に良識をもってメディアが立ち向かい、メディアによる受益者である読者、視聴者がとこまでその構造を見抜き「良識ある」メディアを応援できるかだろう。そのギャップが大きければ、新聞(放送でも同じだが)の論調が新聞倫理綱領等の表面的/公的態度との乖離が相対的に大きくなる。その点では読売新聞は「悪い意味で」率直で「政権が書いてほしくないことは書かない」(NHKスペシャル)「渡辺恒雄 戦争と政治~戦後日本の自画像~」2020年8月9日などでの公言)。だがそれでは何のための新聞なのか?読売新聞も有力会員である新聞協会の倫理綱領の全否定なのだから。

 この日の朝日紙面は新たに論壇時評の筆者/まとめ役となった林香里氏の初登場だが引きつづきこの欄が他所での氏の発言とも合致した実践の場になることをとりあえずは期待しておきたい。(2021年5月1日)

コロナ対策「重点措置」でも酒提供せぬ要請 私権制限 野党は問題視?(2021年4月24日)

 「緊急事態宣言」の対象地域と「まん延防止等重点措置」のそれでは酒類の提供の可否の基準が違い、後者対象地域でも店舗に酒類提供を求めるのはいかがなものか?と野党が主張しているという。だがこの記事内容が正しければ政府のやり方も野党の主張もともに現実的ではないし論拠そのものもおかしい。なぜなら、今大事なのはコロナに打ち克つ効果的対策であり、その目的のために出来ることはすべてやること、そしてその実行の過程で本来なら可能な日常的ビジネスに支障が出ればその面での休業補償なり、損失補填なりをすればいいことだ。コロナ蔓延が実際に止まらないどころか「蔓延」しつつあるとき、「酒提供が私的制限かどうか」などという議論を国会でやっているのはいかにもバカげている。

 そんな議論のレベルだから、野党はいつまでも野党だし、金銭と役得だけが目的の政府・与党の議員たちもまったく頼りにならない。こうした時、斎藤幸平(2020)『人新世の「資本論」』集英社(新書)を読むことはマルクスの新しい読み方としていくらかの刺激にはなるが彼の提言もまた多くの環境保全主義者たちが提言してきたことにそれほど多くを付け加えているものではない。

注:「まん延防止等重点措置」(2021年2月13日施行、緊急事態宣言なしでも集中的な対策を可能にできる。

2021年4月20日

コロナ災禍が想定外に拡大、とりわけ大阪では患者数の増大が深刻化し緊急事態宣言を国に求めることになった。実際、大阪府内の医療施設だけではその重症患者のケアができずその数名を滋賀県で受け入れることになったという。滋賀に住む筆者にはいろんな思いがあるが、ああだこうだという前に人の命が大事であり、余裕がありさえすれば今度の受け入れ決定は当然なことだ。ただこれには政治家としての大阪府吉村知事らのこれまでの人気取り的な言動には相当な問題があったとの指摘をしておくことは必要だろう。
 こうした事態を招いた政治家たちは政府コロナ対策分科会会長、尾身氏による「政治家はリスクと責任を」との苦言の意味と重さをかみしめるべきだろう。私自身は素人だからコロナ対策としては公共交通機関の利用や人混みへ近づくことを避けることぐらいしかできていないがこの尾身会長による冷静な発言・提言の重みと結果としての真実性がちかごろよりいっそう深く理解できるようになった。繰り返すが吉村大阪府知事、松井大阪市長らのあまりにも軽いのりでの「ノーマル経済活動維持論」や菅首相のGoToキャンペーン論への尾身氏による控えめな苦言のほうが結果として正鵠を得ていたわけで、尾身氏の提言は政治家たちのいい加減さとは際立った違いとなったことの背景構造と政治的意味の検証は後々必要になるだろう。(2021年4月20日)

東京五輪開催権は返上し、中止するしかない!

 冷静に考えればその主催関係者にとって今夏の五輪開催は「とりあえず中止する」以外の選択肢はないのに出場予定選手、それも日本選手への抗コロナワクチン注射を優先摂取させるべき?とのトンデモ発言を自民党の下村政調会長が記者会見の席で述べたそうだ(2021年4月14日)。無責任の極みで人格的にも正常ではなかろう。ワクチン接種がまずは医療従事者と高齢者から始められたのは是認すべきだがこの下村発言はまさに「語るに落ちる」。

 安倍前総理に続く菅とその取り巻き連中もまたその政権維持のために国民の命まで平気で犠牲にして恥じないということ。安倍は五輪招致演説(2013年9月7日@アルゼンチン/ブエノスアイレス)で、「福島原発事故の汚染水はコントロールされているし、東京には影響はまったくない」(原文:Some may have concerns about Fukushima. Let me assure you, the situation is under control. It has never done and will never do any damage to Tokyo.)と述べて福島を切り捨て、全国向けには「復興五輪」と叫び、今では菅総理も「コロナに打ち勝った証として五輪開催を」と・・・、そして今度の下村発言!だが福島の現場では山側から流れ込む地下水と原発からの放射能が混じり合いその除去汚染水(汚染除去水ではない!)が溜まりにたまってこのほど「海中投棄」を政府が決定、地元漁民だけではなく近隣諸国からの批判が高まっている。

 こんな政権と政治家どもを選んでしまった私たち国民にも責任はあるがこうした言い方で国民ダマシを続ける「偽」選良どもを私たちはなぜ「退治」できないのか。国民の多くはメディア研究者ではないから大半のメディアが広告主をはじめ、自らの業界の存続を第一に考えて事業展開をしていることに気づけない。たとえ気づいたとてもその逆転をするための基礎資料を獲得して反論しにくいし、大半の学者たちまで自己保身で口をつぐむことに「慣れさせられ」ている。今、売れている斎藤幸平(2020)『人新世の「資本論」』 (集英社新書)は今日の地球社会は社会主義や資本主義などという表向きの区分なく、人類共通の財産である地球資源の無計画な喰い尽くし競争で共通している、資源的にも余裕がすでになくなりつつあり、全体が悲惨な結末に向かって疾走しているとマルクスの主張に依拠しながら説く。政治家や財界人の多くは文字通り「3だけ主義」(今だけ、自分だけ、お金だけ)の実践者だがそれに異議を唱えるべき立派な綱領を持っているメディア企業とその従事者たちの多くまでがこの社会的惨状に無自覚では誰がこの社会を救えるのか?自らの非力を恥じるのみ・・・。(2021年4月15日)

プロフィール

twatanab

Author:twatanab
本人略歴

渡辺武達(わたなべ たけさと) Takesato Watanabe, Japan
愛知県生まれ。同志社大学教授(社会学部メディア学科)を経て、現在、同志社大学名誉教授、日本セイシェル協会理事長、京都メディア懇話会会長。国際メディア・コミュニケーション学会国際理事、国内、国外での講演・執筆活動やテレビ出演、セイシェル関連でのテレビ番組コーディネイター等をしている。

メディア関係の社会活動として、同志社大学メディア・コミュニケーション研究センター代表(2003-7)、関西テレビ番組審議会委員(1996-2010)。京都新聞報道審議会委員(2000-2015)、など。(2016年9月現在)

Takesato Watanabe: Professor Emeritus at Doshisha University, Japan, Media& Information AnalystPresident of Kyoto Council on Media Studies and PoliticalScience=CMSPS)Kyoto International Council of International Association for Media and Communication Research=IAMCR Chairman of Japan-Seychelles Friendship Association (As of September2016)

著訳書:『ジャパリッシュのすすめ(朝日新聞社、1983年)、『テレビー「やらせ」と「情報操作」』(三省堂、1995年)、『メディア・トリックの社会学』(世界思想社、1995年)、『メディアと情報は誰のものか』(潮出版社、2000年)、“A Public Betrayed”(『裏切られた大衆』(2004年、米国Regnery刊、A. Gambleと共著)、『メディアと権力』(論創社、2007年)、『メディア・アカウンタビリティと公表行為の自由』(論創社、2009年)、『自由で責任あるメディア』(論創社、2008年)、『メディアへの希望 積極的公正中立主義からの提言』(論創社、2012年)、『メディアリテラシーとデモクラシー 積極的公正中立主義の時代』(論創社、2014年)、『メディア学の現在』(共編、世界思想社、2015年)など。

1980年代からテレビ制作に関わり、ファミリークイズやドキュメンタリー番組を作る。現在はCCTV(中国中央テレビ)英語国際放送などに衛星生中継で出演。専門はメディア社会論、国際コミュニケーション論。

Statement: Takesato Watanabe (as of May 2016)

Takesato Watanabe is Professor Emeritus,Doshisha University, Japan and President of the Kyoto Council on Media Studies and Political Science. After studying Journalism and Mass Communication at Doshisha University, he taught Journalism Ethics and Mass Communication Theory at that university for 25 years. He also acted as an advisor for International Department of The Japan Society for Studies in Journalism and Mass Communication. In his media career, he has been a TV coordinator for over thirty years, a newspaper columnist and a commentator for China Central TV since 2007. He has published over 25 books, including co-authored and edited volumes; also in English, A Public Betrayed: An Inside Look at Japanese Media Atrocities and Their Warnings to the West, published in the United States.

Among his major translations from English into Japanese are A Free and Responsible Press by the Commission on Freedom of the Press (1947) and Denis McQuail’s Media Accountability and Freedom of Publication (2003).

He wishes to contribute to making IAMCR a stronger organization that will play a role in preparing an information environment for world peace through media studies and practices.

Author: Takesato Watanabe, Professor Emeritus at Doshisha University, Japan.

Media & Information Analyst

渡辺武達(メディア・情報学者)

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