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ディアと社会第2部:ジャーナリズムの存在価値 (ジャーナリズムの倫理と責任 その8)

2019年3月18日 渡辺武達

メディア研究は人びとが有する情報をやりとりするコミュニケーション過程とそれに関係する社会的実相の総体解明をその目的とする。究極的には社会に流通する情報の質的改良を目指すことから「情報と社会の公益性(社会性と公共性のプラス価値)拡大と向上のための社会医療学」とも言い換えることができる。

この「メディアと社会」論第2部ではそうした枠組みからマスメディア・ミドルメディア・マイメディアが混淆する現在のメディア状況とその実相を具体的に検討し、その病理への処方箋づくり、どのような視点でどのような素材を取り上げ、どうように発信していくかの基本姿勢について語っておきたいと願う。

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唐突なようだが、私たちが今、現代のメディアとジャーナリズムの責任を知るためには社会の最高権力とその実態、そしてそれに従うことを多様な仕方で強いられている市民階層/公衆とにメディアはどのようなスタンスでアプローチしているか、出来ているかを問い、検証しなければならない。しかも、どのような組織でもその代表者、権力層が実際にしていることの検証なしにそこで機能している力学構造を理解することはむずかしい。それは日本だけではなく、世界のどの時代の、どの地域においても例外ではあり得ない。ふつうの市民、生活者は自ら生きている社会にへばりついて生きるしか途がないからである。

とすれば、現代日本社会を対象としたメディア論では少なくとも大日本帝国憲法(通称:明治憲法、1889年/明治22年2月11日公布、翌1890年11月29日施行)における明治天皇の存在とその法的規範・規程およびそれらの結果としての体制がもたらした戦争と国内外の戦禍がどのような権力行使によってもたらされたのか、そのことを情報論的視点から構造解析していくことがとりわけ重要となる。なぜなら、近代日本の理解とその位置づけには近隣諸国との戦争(相手国からはしばしば侵略戦争、植民地支配戦争と批判されているし、実際にもそうだから)とメディアがそれらの力学を拡大強化して人びとに伝え、結果として加害活動に参加させられた市民/国民の置かれた信的構造の検証なしに、日本人は前に進むことがむずかしい。

天皇の俗世間的位置づけ

 年齢や立場、能力、その時に置かれた条件等による違いはあるが一般論としていえば、人間の行動、とりわけその過ちにはなにかしらの責任がともなう。しかし日露戦争や朝鮮半島、中国大陸、東南アジア諸地域への日本による「侵略」戦争においてその計画と実行を担った軍人幹部の中でみずから相応の責任をとり、加害者責任をその後の生き方のなかで建設的に果たそうとした旧軍人高級幹部はいない。そのうえ、それらの「無責任」者が今再び表に立とうとしている。そしてその期の日本国の法制度上、そうした無責任な軍人幹部と政治家たちの上に「君臨」していた(実際にはそうさせられ、祭り上げられていた)日本国天皇の場合、その戦争責任はどのように位置づけられるのか?

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明治期以降の戦争において天皇が社会の実相と日本が置かれた国際的位置について正確に知っていたか、知らされていたかといえばすくなくとも敗戦色を隠せなくなったポツダム宣言受諾(1945年8月15日)一年前ほどまでは上掲書の題名通り『情報天皇に達せず』であった。その意味は実際に天皇が敗色が濃くなった戦況を知ったのは沖縄への米軍上陸や東京空襲が始まってからでもなく、それ以前にも信頼された側近から知らされていた。

しかし「法的に絶対的」であった天皇も軍部とりわけ東條英機が指導した陸軍のごり押しに適切な決断を妨げられていたといってもいいだろう。また東條には民を想う政治哲学がなかったがその割に「皇室などに礼賛者がある」のは「支那=中国でのアヘン密売利益を使っていたからで、その額16億円にもなり、その汚れた資金によって、軍や天皇に仕える宮内省幹部などへの付け届けに使っていたことがあったからだ・・・例えば秩父高松両殿下には自動車をひそかに献上し、枢密院顧問官には会うたびに食物衣服等のお土産といった生活物資まで、しこたま付け届けしていたから(昭和19年10月15日、同書下巻、313頁)などと記されている。といっても、東條を筆頭とする軍幹部だけが堕落し、戦争責任があり、天皇にその責任がなかったというわけではない(この詳細は別記)。この日記の著者細川護貞は第2次近衛内閣で内閣総理大臣秘書官を務め、ある程度まで戦後のごたごたが落ち着いた1953年に冷静な記憶と記録の整理を経て当該書を出版しており、その記述の大枠は信用できる。

天皇は日本国民/市民ではない?

天皇は生物学的には他の日本人と同様の「人間」であるが、法規上は「一人の日本国民/市民」としての人間ではない。まさに「外部からは触れることができない象徴」として君臨していたわけで、明治憲法だけではなく現行憲法の規定においてもそうであり、大手メディアでは批判的言及は事実上のタブーである。国家の最高法規である憲法では現天皇を「日本国と日本国民統合の象徴」(憲法第1条)とされ、「国政に関する権能を有さない」(第4条)。つまり「象徴」であるから政治的発言はできないし、政治的だと判断されるすべての言動はご法度だということにされている。しかし具体的な線引きがあいまいで、「譲位」についての自らの提言など、ときおり問題になり、それを「政治的発言」と解した人たちからは批判的に取り上げられる。もちろん、彼にはもちろん、選挙権も被選挙権もない。「生物学的には人間」ではあっても象徴としてただただ「存在する」だけで、対外的発言の自由は「ほとんど」ない。

繰り返すがそのような天皇も生物学的には私たち一般人と同じ人間=動物である。そうであるかぎりご本人が自由でありたいと心のうちにひそかに希望を持つことはあろう。しかし、最高法規である現行憲法に天皇制という「システム」についてのそのような規程があるかぎり、彼はその範囲で動かざるを得ないし、動いてもらわねばならない。と同時に、外部のいかなる勢力もそれを逸脱して天皇と天皇家を利用してはならない。だが、その逸脱がしばしば現実政治を行う人たちの一部によってなされている。かつて日本から侵略を受けた国々からの批判はまた別の視点からの考察が必要だが・・・。

韓国からの「戦犯」呼ばわり

その日本の天皇についてこのところ、韓国政府関係者からの批判的言及がしばしば問題になっている。それは外交的にギクシャクしている日韓関係の余波ともいえるが「改善には戦犯のドンである天皇が従軍慰安婦の手を取って謝罪すれば問題は解消する」という文喜相韓国国会議長による発言が公開の席上でなされたのもその一つだ。またこのほど第2回目の米朝首脳会談をベトナムのハノイで開いた朝鮮半島のもう一方の当事国トップである金正恩(キムジョンウン)委員長も「『拉致問題』は我々の誠意と努力により、既にずっと前に全て解決した問題なので、これ以上は存在しない」などと言い放っている(朝鮮中央通信など)。

☆「日本の未来は過去の清算にある-朝鮮中央通信社論評」:「拉致問題は「解決」しており「存在しない」、日本は「謙虚な反省」を (2019年1月16日 「朝鮮中央通信」)
☆また、2019年2月7日/文喜相韓国国会議長への米国メディア・ブルームバーグによるインタビュー発言にはこうある。「一言でいいのだ。日本を代表する首相かあるいは、私としては間もなく退位される天皇が望ましいと思う。その方は戦争犯罪の主犯の息子ではないか。そのような方
が一度おばあさんの手を握り、本当に申し訳なかったと一言いえば、すっかり解消されるだろう」

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かつて植民地化され国土を蹂躙され、戦争の被害者であった南北両朝鮮の政権担当者/幹部が上記のような発言をすることにはまったく根拠がないわけではない。しかも加害者側である日本サイドは、法理上も現実政治的にも、社会倫理上も多くのことを再考して出直さなければならない。南北朝鮮の指導者たちの言動に反発するだけではいささかあつかましいし歴史認識にも欠ける。その反対に傍観するだけでは歴史は前に進まないから両者の認識の違いを明らかにして「和解の道」を探る努力が必要だが、現実の3国(南北両朝鮮と日本)の指導的政治家たちはそのことに背を向け、自己都合の言動で自国民の支持率を高めようとすることに熱心・・・、対立を煽ることで利を得ようとしているとしか見えない面も確かにある。

☆この問題は日中関係にもあり、まずは南北両朝鮮と中国と日本の良識ある人たちが和解の筋道と可能性を探る方策、可能な実行案を探る必要があろう。これを「東アジアの和解学」と呼んでおく。

ポツダム宣言受諾の「玉音放送」

先の戦争(多くの呼称があるが鶴見俊輔に倣い「15年戦争」と仮に呼ぶ)時の天皇は昭和天皇(第124代天皇、在位: 1926年〈大正15年/昭和元年〉12月25日~1989年〈昭和64年〉1月7日)であった。その意味では間もなく退位する現在の平成天皇(今上天皇)は現代法に基づいていえば15年戦争についての法的責任はあると推量できるが、現実にはない。が、天皇は世襲であり、しかも現在の戦後憲法では「象徴」でもあるがその生き方として、戦争についての責任の有無論は簡単ではない。なぜなら、15年戦争の責任論は加害者と被害者の体験とその後に教え込まれたメディアによる提供情報に大きな影響を受けているからだ。

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戦争開始時および終結時/ボツダム宣言受諾時の憲法は明治憲法「大日本帝國憲法」で、そこには「天皇ハ國ノ元首ニシテ統治權ヲ總攬シ此ノ憲法ノ條規ニ依リ之ヲ行フ」とある。つまり昭和天皇は実際にはどうであったかは別にして、法的にはその立場から「行動していた」と解釈されても仕方がない。だからこそ昭和天皇は「国の元首」としてポツダム宣言受諾のラジオ放送=玉音放送を自ら発話したわけである(実際には前日に録音した音声が1945年8月15日正午のラジオで流された)。ついでにいっておけば、陸軍幹部はその玉音放送を阻止しようとしてそのレコード原盤を押収しようと関係各所を探し回ったとの記述が前掲細川護貞(1953)『情報天皇に達せず』にある。

☆天皇 第一條:大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス 第三條:天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス 第四條:天皇ハ國ノ元首ニシテ統治權ヲ總攬シ此ノ憲法ノ條規ニ依リ之ヲ行フ

 つまり天皇は法的にはすべての総覧者として権力の総責任者であった・・・しかし実際には天皇は神ではなく能力的な限界があるし、知的な情報は周囲で助ける人たち=補弼者による助言から得るしかなかった。
☆明治憲法第五條「天皇ハ帝國議會ノ協贊ヲ以テ立法權ヲ行フ 第六條:天皇ハ法律ヲ裁可シ其ノ公布及執行ヲ命ス・・・」
つまり彼はそうして与えられる情報を基にして動いていた(より正確には「動かされていた」)に過ぎない。つまり国家の仕組みとしては最高権力者であったとしても、「真の情報」は「天皇に達せず」というのが真相であった。そのことに昭和天皇が後に気づき自らが操り人形として多くの国民に苦しみを与えたことを反省していたことは、彼が戦後いちども靖国神社に参詣することはなかったことに象徴的だし、彼の発言と行動を受け継いだ現天皇によるかつての侵略地や沖縄への「懺悔の旅」によく表れている。それに比すれば、まごうかたなき「戦犯」としての悪行を重ねてきた現在の日本の「総理安倍晋三と副総理麻生太郎は恥知らず」であるといって差し支えない。そして彼らを国政のトップに君臨させている私たち国民もメディアも褒められたものではない。

 ☆15年戦争中の軍部とくに陸軍と天皇との関係は第2次近衛内閣で内閣総理大臣秘書官を務めた細川護貞が当時の情況を克明に記した日記『情報天皇に達せず』1953年 同光社磯部書房、上・下巻 を読めば一目瞭然である(表紙写真は冒頭に掲載)。

歴史から私たちは何を学ぶか

 もちろん、先の戦争=15年戦争は唐突に起きたわけではない。江戸時代からの鎖国期と大政奉還をもたらした討幕運動という内戦を経て天皇政治が復活、産業復興を目指した明治期に日本の植民地主義の本格的な始まりがある。天皇が政治の頂点に位置し、軍部がその制度を「戦争を起こすことで自己権力の維持の道具に利用」したという面が強いということである。

しかもそれと類似の権力構造がロシアにも中国にも朝鮮半島の諸政権にもあり、そのもたらした抑圧の構造に民衆がたえず犠牲者とされてきたことも確かである。その点でも日本とその近隣諸国にも社会構造上の共通性があった。とはいえ、戦争は先に仕掛け相手国を侵略、略奪と殺戮を繰り返したものの責任が免れることはない。
つまり現在の政治国家である南北朝鮮(大韓民国=南と朝鮮民主主義人民共和国=北)でも、中国でも国内的には類似の過酷な民衆統制があった、とはいえ、日本がそれらの地域の民衆解放を目指して進攻したのではなく、あきらかにそれは日本が自己利益のために踏み込んだ侵略であったということである。

明治以降の朝鮮半島と日本との関係でいえば、一方的に日本側が批判されても仕方がない構図で日本が行動したことを認めなければならないないし、中国との関係でも同様のことがいえる。つまり、現在の朝鮮半島の2国からすれば、やはり日本の昭和天皇は戦犯であろう。だが、日本に住む現在の日本人である私たちは現在の日本社会が国際的にどのように位置づけされているかについて、安倍晋三首相(現・日本国総理)やドナルド・トランプ米大統領、金正恩(キムジョンウン)朝鮮労働党委員長、韓国の国会議長や大統領などによる自己利益的発言や見方に翻弄されているばかりでは未来に向かう積極的な平和創出活動を展開することはできない。このことは中国やロシアとのこれからの関係構築についてもいえる。

そうした歴史の流れのなかから自らを眺め、認識しなければ、メディア関係者(メディア事業者とその研究者)によるいかなる議論、とりわけ人びとの世界観形成に大きな役割を果たしているメディアとその活動は根本を意図的に軽視もしくは意図的に無視した空論になってしまうであろう。(この項つづく)

...
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2018年2月9日(土)朝日新聞朝刊第3面「てんでんこ」

2018年2月9日(土)朝日新聞朝刊第3面「てんでんこ」
インタビュー by東野真和氏(朝日新聞編集委員) 伝える=25 視点

あ1

☆2016年3月、岩手県大槌町の災害FMが惜しまれながら閉局した。

■地域メディアで住民は賢くなる。地域をよくするためにジャーナリストは書く。

「伝える」では、被災地に根づくラジオ、テレビ、新聞、ウェブを紹介してきた。国内外の地域メディアにくわしい渡辺武達(わたなべたけさと)・同志社大名誉教授に、住民自身が情報を伝える意味について聞いた。

 ――地域メディアのログイン前の続き存在意義は何ですか。
 「住民が賢くなるということにつきる。地域の情報に多く触れることで地域の課題に関心を持ち、議論が始まり、行政を監視する意識も高まる。情報を受ける側もそうだが、まずは集めて発信する側の成長が期待できる。地震後に始めた『大槌新聞』やウェブの『阿蘇西原新聞』の女性たちは、その例だ」

 ――とはいえ、紙媒体は経営が大変です。
 「秋田で週刊新聞『たいまつ』を書き続けた反骨のジャーナリスト・故むのたけじも、一番苦労したのは新聞を売ることだったと語っている。読者や広告主は見返りがないとお金を出さない。工夫や協力者は必要だ」

 ――地域のFMも運営費がかかります。
 「米国では、夫婦で運営し、普段はほとんど音楽を流し、災害時に切り替わる、というところが多い。国土が広く、すぐ公的な助けが来そうもなく、隣家も遠いところでは、地域情報を得る手段としてよく聞かれている」
 「日本でも、津波常襲地の三陸沿岸などでは都市部のように周波数が重なる心配もなく、コミュニティーFMを低コストで運営できるように基準を緩和すべきだ。行政も、普段から庁舎の一室を提供するなどの便宜を図れば、災害時は情報伝達に力を発揮する」

 ――地域メディアは全国メディアの縮小版なのでしょうか。
 「いいえ。例えば視点が違う。中央の目線や全国平均の基準を押しつけるべきではない。もちろん地域エゴでもない。国益が『国エゴ』ではないのと同じだ」
 「ベトナム戦争をテーマにした著作などで知られる米ジャーナリスト、故D・ハルバースタムは私に『コミュニティーをよりよくするためにジャーナリストは書く』と語った。彼の言うコミュニティーは、地球全体から家族までを指すが、私はジャーナリズムの原点は地域にあると思う。社会で地域メディアを積極的に育てていくべきだ」  
 (東野真和)

京都新聞2018,12,20「トランプ政治、なぜ命脈保つ」

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CGTN出演、執筆原稿。

皆さんへ

  10月24-29日まで、環太平洋諸国コミュニケーション・ジャーナリズム研究学会連
合(APCA)の設立準備会で北京と杭州(浙江省)を訪れていました。滞在中の25日、
安倍晋三首相の北京訪問と習近平国家主席との首脳会談があり、急遽、CGTN(中
国中央テレビ国際放送)の要請で、番組出演をしました(以下の写真の左から2人目
)。

また安倍首相が帰国直後にインドのモイ首相との対談が東京であり、そのコメント
をCGTNから文書依頼、掲載分も紹介します。そこには私が北京の人民大会堂で周
恩来総理(当時)と面会したことなども記しました。
以上の放送番組もCGTNホームページ掲載文章もすべて英語でした。
2018年12月2日(日)   渡辺武達

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Opinion: What is behind the Japan-India summit? By Takesato Watanabe
Takesato Watanabe 2018-11-03 23:11 GMT+8

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Editor's Note: Takesato Watanabe is a professor at Japan's Doshisha University. The
article reflects the expert's opinion, and not necessarily the views of CGTN.

Japanese Prime Minister Shinzo Abe held a summit with Indian Prime Minister
Narendra Modi on October 29 in Tokyo, which took place on the day after his official
visit to Beijing to talk with Chinese President Xi Jinping and Premier Li Keqiang. The
two visits perhaps shed new lights on Abe's domestic political position and security
developments in the Asia. Before discussing Modi's visit with Abe, it is useful to look
back on the development of Sino-Japanese relations.

I am glad to see that his visit on the occasion of 40th anniversary of Treaty of
Peace and Friendship between China and Japan was a successful stage of mutually
reliable and firm relations.

Now, I remember the conversations which unfolded on July 11, 1971 at the Great
Hall of the People with late Premier Zhou Enlai, who welcomed Koji Goto, then

president of Japan Table Tennis Association and his wife. I accompanied them as
the association's international committee member.

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Narendra Modi, India's prime minister, speaks during a joint news conference with
Shinzo Abe, Japan's prime minister (not pictured), at Abe's official residence in
Tokyo, Japan, October 29, 2018. /VCG Photo

Premier Zhou said during our meeting that China, not by any means, is isolated from
the world. He added that "China has many languages and ethnic groups within the
nation which means unified China in itself is international."

More than 45 years have passed since then and present Sino-Japanese relations
have greatly improved. I am happy to see that the top leaders of both countries had
friendly talks and agreed to move the ties forward on the principle of cooperation
rather than competition.

However, at the same time, it is not meaningless to consider the fact that Abe met
Modi right after returning from China, because this is closely related with both the
security and trading balance in the Asia Pacific region:

1. Abe's position of having stable trade with the US was made difficult by President
Trump's new tariffs, which came as part of his "America First" policy, and had to
find solutions with China and India.

2. Abe welcomed Indian PM Modi so warmly, inviting him to his private villa and
suggested the expansion of economic relations with India, which is in itself is good
for any country. But in Abe's case, it is not only for that as his main intention is to
have stronger security ties with India.

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Indian Prime Minister Narendra Modi (C) visits a FANUC factory with his Japanese
counterpart Shinzo Abe (R) in Oshino, Yamanashi prefecture, October 28, 2018.
/VCG Photo‍

It means that Abe is trying to get an advantage against China by strengthening ties
with India, a country that has not always kept good relations with China.

3. Abe is actually significantly increasing imports of military weapons, both in
quantity and quality, from the US which implies a positioning of China as the
"hypothetical enemy."

4. Abe also said at the press meeting at the Prime Minister's Office on October 29
that Modi endorsed Japan's “Free and Open Indo-Pacific Strategy.” It means that
Modi agreed with him on the so-called "rule-based order, territorial integrity and
rights to free flight and sea navigation" in the India-Pacific region.

And he also said that “India and Japan's mutual visits for annual summit meetings
have been a driving force for elevating the Japan-India relationship to the higher
ground.” This means that Abe's hidden wish is to follow Trump's idea and surround
China. This method of international politics could increase tension in the Asia Pacific
area.

The role of Abe, and that of Japan, should be to create co-prosperity hand in hand
with China on the basis of the country's growing economic power and peace efforts
in the world.

Support for Abe among his political party members is decreasing and so he needs to
create a "spectacle" for the voters and LDP members. The people and journalists of
Japan are gradually coming to know and realize, but Abe and his followers are still
going to keep it up in order to suggest Abe is a major player in world politics.

Behind the summit talks with Modi is Abe's wish to have India as a counterweight to
China's growing power and peace-making efforts in the region.

(If you want to contribute and have specific expertise, please contact us at
opinions@cgtn.com.)

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メディアと社会:ジャーナリズムの倫理と責任  その7                   2018年6月19日

はじめに

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6月12日、トランプ氏と金正恩(キムジョンウン)氏の米朝首脳会談がシンガポールで行われ、その取材・報道でメディアが右往左往、意味もないのにキャスターたちが現地に出かけ「現地からレポートします」・・・と。行っても行かなくてもジャーナリストならもっと基礎学力と洞察力をつけないといけないのにと思う。

日本の安部首相は今回もまたトランプ氏の周り(カナダG7会議と日米電話会談)でうろちょろ、「トランプ氏と一体である」と吹聴して歩き嗤われている。しかも「アメリカ第1主義=アメリカファースト」の国家主義で世界史を逆行させているトランプ氏に「シンゾー、移民は欧州にとっても大きな問題だ」と述べ、続いて「私は2500万人のメキシコ人を(日本に)送ることができる。そうすればあなたはすぐに退陣だ」(米紙ウォール・ストリート・ジャーナル)と述べて脅したという。(だから俺の言うことをきけ!)」ということだが、トランプ・安倍関係などそんなものだ。つまり二人とも、世界平和と日米両国民にとってのプラス価値などひとかけらも持とあわせていない輩(やから)だということだ。

本欄でも以前に繰り返し書いてきたが、トランプ・金・安倍のケミストリー(性格と思考・行動パターン)は酷似している。嘘を平気でいうところ、国民の幸せなどは眼中にない点が特にそうだが、その発言力と実行力については①ト、②金、③安倍の順番で、安部は麻生(この二人とも中国人・朝鮮人を徹底的に虐め、搾取した家系という点でもケミストリーが類似、そのためワルのセットと呼べる)と組んで始めて独り立ちできている「コワル」(小さな悪)にすぎない。だからといって、3人のうち道徳、倫理面に加えて、能力面でも程度がいちばん低い安部氏を首相にしている日本人はすべて諸外国の知識人たちからはいっしょくたにばかにされるからたまったものではない。

この3者がからんだ会談をふくめ、ブログ更新をしていなかったあいだに書き留めておきたいことがたくさん出てきた。まとめようとすると次にまたメディアのかかわる事件が起きてきて・・・新聞やテレビの記者さんたちが連日、理解不足のまま原稿を書いたり、しゃべったりせざるを得ない事情と苦しさの一端を皮肉なことにすこしだけ理解した。

☆ブログ更新遅延の言い訳はそれぐらいにして・・・まず、先月、この2年にわたって関係してきた次の共著本が出た。

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☆この本には鋭角性や問題発掘的姿勢こそないが、現時点で教育現場に関わる人たちに防災について何ができるか、何をすべきかの基礎資料として貴重な本であることは確かだ。図書館などに入って、教育関係者と市民の方々に読んでいただけるとありがたいと思う。大阪での地域としての最大の地震が昨日(18/6.18)朝発生し、幼児がなくなる学校事故が起きたから特にそう思う。

政治の現場

最近ある著名な政治家のツイッターをみていたら、次のように記している文章に出会った。

「立派な政策を述べる議員がいっぱいいるが実際に「話してみると違うんだね」「選挙は歩いた家の数しか票は出ない、握った手の数しか票は出ない。」「(党総裁選の)国会議員票も一緒で、そういう機会を増やしていく。ただ、歩けばいい」「手を握ればいいだけじゃなく、何かひとつ物語をつくらないとダメだ」

テレビや週刊誌はもちろん、一般紙でも「モリカケ」「公文書改ざん」「安倍総理夫妻の関与」などから「日本大学アメフト問題」「紀州のドンファン」「米朝首脳会談」「新幹線内の殺傷事件」それに「大阪の震度5地震」・・・とまったくおなじ重要さで話題が移行している。これは今にはじまったことではないのだが、こうして長い目で見て一番大事な、私たちの国、日本の国民益を守れる代表者=政治家をどう選ぶか、選べるかの基礎資料を提供するというメディアが「基準なく情報を垂れ流し人びとの時間を奪っている現実が変わらない・・・」、つまりメディアがその社会的責任がおろそかになってしまっていることがいくらかさみしい。

日大アメフト悪質タックル

この言葉は誰からの反論を食らうことはないから、メディアは遠慮なく叩いているが、そしてまた叩かれても仕方がないほど、この事件は建て前としてのスポーツとは真逆の関係力学から発生している。しかし実際のスポーツとその試合がすべて一般に理解されているほど「きれいなモノ」でないことも確かだ。半面、これまでのスポーツは娯楽的演出の多いプロレスでさえそうだが、「ルールのある喧嘩」であるという最低限のことだけは守ろうとしてきた。その詳細についてはまた書くとして、今度の日本大学問題が孕んでいる深刻な面にだけにしぼって記しておきたいことがある。

1.まずは日大教職員の責任である

事件が発覚してからしばらくしてやっと教職員職員組合が顔をだして、実質的支配者である理事長(元学生横綱)と直接のワルである常務理事(アメフト部監督)とそれら二人とその配下の者たちがやりたい放題やっている事実のいったんの批判を始めた。その動きの中で記者会見をした女性役員(この人は勇気と正義感がある!)が署名者/賛同者のなかに匿名希望者がおおいことを記者たちに聞かれて、「上部が怖いからだと言われればそれは否定しません」と返答した。
最高学府である大学内がそうだと民間会社がどうなっているかは推して知るべしだが、すでに官界/役所がどれほどひどい状態になっているかは「モリカケ問題」でいやというほど私たちは知ってしまった。

2.次は教職員の覚悟の問題である。今の日本の大学ではいったん専任職を得れば、たとえ上役ににらまれて昇進妨害されることはあっても、殺人や学生への破廉恥罪等を犯さなければ解職、退職を迫られることはない。なのに、「そういう実態は知らなかった・・・」などといい、大多数の教職員が「だんまりを決め込んでいるのは卑怯」だし、「そういう不誠実を学生たちは見抜いている!!」。だから、その親たちから「授業料返せ!」という批判、抗議が各学部事務室などに多数寄せられているのも当然だ。

3.しかしだ、問題がより深刻なのは、そのことを見抜いている学生たちも社会へ出て、同種の事件に自分が関係者として遭遇するとその多くが今回の日大教職員と同様の対応をする・・・せざるを得ない社会構造のなかで私たちは生きている。救いがあったのは「悪質タックル慣行者」が顔出しをして謝罪したことだ。日大の中にもそれだけの学生がいる。
私個人は日本大学に勤めながら時の流れがすべてを忘れさせるのを待つような生き方をしたくないと願ってきた。それがこれまで出来たのは幸運であったかもしれないが。

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6月3日、今年度のカンヌ国際映画祭(第71回)最高賞であるパルムドールを受賞した「万引き家族」(是枝裕和監督)を見た。表面的には「万引きが生活の糧」というとんでもない題材を扱っているのだが、そのコンペティション部門賞の受賞について、某野党国会議員が議会の委員会で林文科大臣にたいし、「(日本にとって)おめでたいことであり祝意を伝えたらどうか」と促したところ、大臣もそうしたいと答えたという。

 その報を知った是枝監督は文科相のその発言についてすかさず自身のオフィシャルサイトで発表した次のメッセージが奮っている。それにいたく感心した。氏いわく:

映画がかつて、「国益」や「国策」と一体化し、大きな不幸を招いた過去の反省に立つならば、大げさなようですがこのような「平時」においても公権力(それが保守でもリベラルでも)とは潔く距離を保つというのが正しい振る舞いなのではないかと考えています・・・

☆これにたいして、この「万引き家族」が文化庁からの助成金をもらっているのに何という言い草だ!という批判がネットなどにあがった。だがそれこそ、「日本の巨大メディアと教育が作り上げた誤解」だ。なぜなら、文化庁の助成金は税金が原資となっているからであり、文化庁は税金を納めた国民を代理して国民の金を有益な映画製作に補助する「代行」をしているだけなのだから。ここでもじつに見事な短絡思考がまかり通っていることが恐ろしい!

☆『平成30年度文化芸術振興費補助金による助成対象活動』の報告書には是枝監督の作品に対する2,000万円の助成金執行の記載がある。この助成金は〈作品〉完成後の 興業収益が一定以上あれば変換の義務も発生するらしい。しかしその実行があってもなくてもとりあえずの議論とは関係がない。

☆公式には6月8日から公開されている本作を私はなぜだか、6月3日(日)に自宅前の「ユナイテッド・シネマ大津」で見たのだが、自分にとって共感でき、ここ温まる・・・と同時にとても不思議な映画であった。とくに世の中の家族の暖かさはもはや万引きで生き、助け合っている「疑似家族」のなかにしか存在しないということの意味は文科相をはじめ、それを「祝意の表明という観点から取り上げた」若干スタンドプレー的な国会議員、アイススケートやレスリング選手などには支持率が落ちると決まって国民栄誉賞を乱発して国民の注意点を反らしているシンゾーが「万引きにまで追いやられている家族」が日本に居ることを示す映画には、自分の「アベノミクス」が根底的に批判を受けていることを直感し、ダンマリを決め込んでいるおぞましさ。これまた彼の人間としての「小ささ」の表れだし、映画の評判が上がることがよっぽど困ることなのだろうな。

映画「万引き家族」が世界で注目を集めると「日本の恥を世界に晒していることになる」となどという意見もネット上にあるが事実の総体を理解して社会を理解していくことでしか、社会改革などできはしない。権力者と金儲け主義者たちにいいようにされるだけなのだ。

学界だけで完結する学問に社会的意義はない!

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社会学者、日高六郎さんがこの6月7日、京都で101歳の生涯を閉じた。マス・コミュニケーション論の資料集などの本でもお世話になったが個人的にも何回か直接に教えていただいた。とくにその生き方が同志社大学大学院新聞学専攻で教えを受けた鶴見俊輔さん(2015年没)と通じるところがあり、お話しさせていただいていてとても心が落ち着き、勇気づけられた。二人とも「学問を大学という職業空間における技術とその成果としての飯のタネにするだけ」(どんなことをしても科研費などを採りたいことなど)という考え方と行動には無縁で、その「悪しき常識」を拒否されていた。

言い換えれば、お二人とも学問に意味があるとすれば、私たちが生きる社会の構成員として、メディアを例に挙げれば、メディアの直接事業者もその研究者もともに、人びとの相互理解に資すること、世界平和、民族差別の解消といった公共善(public good)拡充する情報を採りだし、いっぱんに分かりやすく提供する為に存在していると考え、その実行をされていたと思う。

ご冥福をお祈りする。(この項、終わり)


プロフィール

twatanab

Author:twatanab
本人略歴

渡辺武達(わたなべ たけさと) Takesato Watanabe, Japan
愛知県生まれ。同志社大学教授(社会学部メディア学科)を経て、現在、同志社大学名誉教授、日本セイシェル協会理事長、京都メディア懇話会会長。国際メディア・コミュニケーション学会国際理事、国内、国外での講演・執筆活動やテレビ出演、セイシェル関連でのテレビ番組コーディネイター等をしている。

メディア関係の社会活動として、同志社大学メディア・コミュニケーション研究センター代表(2003-7)、関西テレビ番組審議会委員(1996-2010)。京都新聞報道審議会委員(2000-2015)、など。(2016年9月現在)

Takesato Watanabe: Professor Emeritus at Doshisha University, Japan, Media& Information AnalystPresident of Kyoto Council on Media Studies and PoliticalScience=CMSPS)Kyoto International Council of International Association for Media and Communication Research=IAMCR Chairman of Japan-Seychelles Friendship Association (As of September2016)

著訳書:『ジャパリッシュのすすめ(朝日新聞社、1983年)、『テレビー「やらせ」と「情報操作」』(三省堂、1995年)、『メディア・トリックの社会学』(世界思想社、1995年)、『メディアと情報は誰のものか』(潮出版社、2000年)、“A Public Betrayed”(『裏切られた大衆』(2004年、米国Regnery刊、A. Gambleと共著)、『メディアと権力』(論創社、2007年)、『メディア・アカウンタビリティと公表行為の自由』(論創社、2009年)、『自由で責任あるメディア』(論創社、2008年)、『メディアへの希望 積極的公正中立主義からの提言』(論創社、2012年)、『メディアリテラシーとデモクラシー 積極的公正中立主義の時代』(論創社、2014年)、『メディア学の現在』(共編、世界思想社、2015年)など。

1980年代からテレビ制作に関わり、ファミリークイズやドキュメンタリー番組を作る。現在はCCTV(中国中央テレビ)英語国際放送などに衛星生中継で出演。専門はメディア社会論、国際コミュニケーション論。

Statement: Takesato Watanabe (as of May 2016)

Takesato Watanabe is Professor Emeritus,Doshisha University, Japan and President of the Kyoto Council on Media Studies and Political Science. After studying Journalism and Mass Communication at Doshisha University, he taught Journalism Ethics and Mass Communication Theory at that university for 25 years. He also acted as an advisor for International Department of The Japan Society for Studies in Journalism and Mass Communication. In his media career, he has been a TV coordinator for over thirty years, a newspaper columnist and a commentator for China Central TV since 2007. He has published over 25 books, including co-authored and edited volumes; also in English, A Public Betrayed: An Inside Look at Japanese Media Atrocities and Their Warnings to the West, published in the United States.

Among his major translations from English into Japanese are A Free and Responsible Press by the Commission on Freedom of the Press (1947) and Denis McQuail’s Media Accountability and Freedom of Publication (2003).

He wishes to contribute to making IAMCR a stronger organization that will play a role in preparing an information environment for world peace through media studies and practices.

Author: Takesato Watanabe, Professor Emeritus at Doshisha University, Japan.

Media & Information Analyst

渡辺武達(メディア・情報学者)

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