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アメリカ時代の「終わりの始まり」~米国横断の旅から、その13(最終回)~私たちが必要とするメディアとジャーナリズムとは?

10月12日(2017年)、ティラーソン米国務長官が米国はユネスコから脱退すると発表し、ユネスコ本部も来年度からそうなることを確認した。ユネスコの「対イスラエル」対応が「パレスチナ寄り」であることにトランプ政権が不満であるというのがその理由だという。そして翌日、イスラエルも同様に脱退すると声明した。加盟承認には資格審査などが必要だが、脱退は通告だけでできる。しかし、その理由には合理性がない。

☆「文化の広い普及と正義・自由・平和のための人類の教育とは、人間の尊厳に欠くことのできないものであり、 かつ、すべての国民が相互の援助及び相互の関心の精神を持って、果たさなければならない神聖な義務である。」ユネスコ憲章前文から。

脱退理由の一つがパレスチナ自治政府が実効支配する地区の「ヘブロン旧市街」がユネスコ世界遺産に登録されたことだという。しかし、その実態はトランプ氏の家族にイスラエル人(ユダヤ系)がいることだから、彼の政治が自分と関係者の利益主体で世界平和への思いなど微塵もないことがここでもはっきりする。にもかかわらず、「脱退しても、言論・表現の自由などについての米国政府の保有資料などはユネスコに今後とも参考提供する・・・」というのだから笑わせる。
 
異なったものが集まれば多少の軋轢は生まれる。今度の件は日本政府によるアジア侵略地域の「保存決定」(例:「南京虐殺」)への異議申し立てにも通じることだけに、今や、アメリカ社会を皮切りにいろんな面で政治的異常が頻出し、その報道もまた「ジャーナリズムの価値観」なしで発表通りに行われていることが残念である。 
今回旅行の現地観察についてはこのブログで12回に分けてレポートしたとおりだが、最終回として以下、メディアの社会的責任を中心に全体のまとめをしておきたい。

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写真1. 権力層が隠したい事実を提供し、自分の住む地域から社会を変えていければ・・・と話したジャーナリスト、D.ハルバースタム氏(右、故人)と。1991年11月29日、大阪にて

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写真2.戦争とジャーナリズムについて講演したP.アーネット氏(右)と。2009年12月2日、同志社大学にて

米国レンタカー移動旅行の目的と成果

私たち日本に住むものにとって、政治と社会の二面に限れば、アメリカとの関係をどうするかが最大の課題だ。アメリカとは日本にとって何であり、これまで何であったのか。今、アメリカをきちんと知ることなしに、文字通りグローバル化した今日の世界で私たちが適切に対応することはむずかしい。それにはまず、現在のアメリカがいったいどうなっているかを正確にしらねばならない。それなしに両国民の幸せを導く関係のあり方提案などできるはずはない・・・ということでもある。

だが、昨(2016)年11月、大統領としてドナルド・トランプ氏(以下、ト氏)が登場し、これまでとは違う・・・すくなくともオバマ時代とはまったく違う様相の政治をやりだしたことに対し、日本での報道はト氏とヒラリー・クリントン氏の競馬レースのような扱いで、しかも多くの予想に反してト氏の勝ちを予想した元NHK記者がもてはやされる始末であった。

どうしてそうなったかを含め、その後の日本メディアによる解説は皮相的にすぎ、筆者にとってまるで参考にならなかった。同時に、アメリカとの接触が比較的多い私にも、現在のアメリカがどうなっているか、環境保全問題1つをとってみても、「地球温暖化など問題にならない・・・」といってパリ条約からの脱退をはばからない無教養かつ「愚劣」なト氏がなぜ大統領の座に居続けられるのか、無茶苦茶に見える彼の言動が私の理解してきたアメリカ社会の代表としてふさわしいとはとても思えなくなった。

さらには、トランプがメディアによる批判だけではなく、多くのはげしいデモにさらされながらも、世界の「大国」の一つ(後述するように現在のアメリカはもはや「超大国」ではない)であるアメリカを代表してその活動ができている不思議・・・。しかも私たちが日々接する日本のメディアとジャーナリズムはネットも含め、「饒舌ではあっても短絡的かつ表面的で、中身が希薄」で、グローバルな視点で日本社会の今後を考えてはいない。

今のままでは東アジアだけでも、日中韓の関係強化、北朝鮮への適切な対応などできはしない・・・それが今回のアメリカ横断旅行を決断した理由であった。しかし一か月以上かけて、一挙に大陸横断することは体力的にも仕事の関係からもむずかしく、今年と来年(6月末を予定)の2回に分けて実行することにしたわけである。

さらにいえば、今の日本の安全保障面での不安定と軍事費の浪費は北朝鮮の横暴だけが問題ではなく、日本がアジアにおける過去の戦争の侵略を認めないことから中国と韓国との間での信頼関係を結べない点と、それを隠しての日本政府によるアメリカオンリー政治を変えねば・・・そしてその観察を基に対外発信をすることの必要も感じたからである。

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写真3. 日本の衆院選について、東京・北京・ロンドンの3極中継衛星討論に参加、2017年10月10日。

1.日米関係のあり方:その過去・現在・未来

 我が国の宰相、安倍晋三氏はトランプ氏が何を言い、彼から何をいわれても「愛想笑いともみ手」で「おっしゃる通り」と(たとえば、北朝鮮側にも問題が多くあるにせよ、トランプ氏がいうことをきかないと爆撃、殲滅するぞと脅しても・・・)、「下駄に付いた雪」のように従う談話ばかりでは、私にとってとても恥ずかしいことだ。加えて世界情勢がもはやアメリカ中心に動いてはいない、より正確にいえば、世界の指導者たちもアメリカ自身もそのようなグローバル力学など信じていないし、現実にも通用しなくなっているのが分かっているのに・・・我が日本だけが何をしているのか!という忸怩たる思いとそれをきちんと報道していないマスメディアにも不満が残ったからである。

繰り返すようだが、この連載エッセイのタイトルを「アメリカ時代の《終わりの始まり》」とし、現在のアメリカの政治社会レポートとメディ論を自分で書いてみようと思った理由がそれであった。

現在の日本政治が、その真意と程度にはいろいろあるにせよ、誰もがアメリカを抜きに日本の対外関係を語れないのは事実だ。しかしである、少なくともメディア(マスメディアもネットも)は私たちの理解を深め、行動指針とできるような情報提供をもっとしなければならない。同時にそのアメリカが独自に世界を動かせる力をあらゆる分野で、相対的にも絶対的にも喪失しつつあるという事実を見据えた言論でなくればならない。そうでなければ、日本という「運命共同船」に乗り合わせた私たちの安全な将来は確保しがたい。

言い換えれば、グローバルな観点からしてもアメリカ最強時代が長く続き、アメリカ自体も自らが世界の大枠を決めるパワーであると自己誤認・・・その状態をよしとしないロシア(旧ソ連)も中国も実質的にアメリカなしに世界戦略は描けないというのが第二次世界大戦以後長いあいだ続いてきた。だがそうした力学認識だけではグローバルな安定と平和構造は描けないことは自明だ。
実際、江戸時代の終わりから明治、大正、昭和、平成の今日までアメリカとの関係を外して自らを位置づけることは出来かったのだが、今は違次元での世界の動きが始まっている。だが日本だけではなく、世界の大半のメディアもこの構造の力学的変化に適切な対応が出来ていない。逆にいえば、今その認識ができなければ今後の日本のあり方を語るとき大きな間違いをおかすことになるし、実際、今現在、おかしつつある。

2.メディアの在り方:リップマンからデューイ的社会観へ

メディア史、とりわけ政治メディアとジャーナリズムの分野では欠くことができない巨人が何人かいる。その1人がウォルター・リップマン(1889-1974)で、彼の言論活動は第二次大戦前後の世界政治の指導者たちにとってもっとも参考にでき、そして実際にそうであった「政治」ジャーナリスト(別称「哲人ジャーナリスト」)である。アメリカの世界的位置の分析にしても、リップマンは1960年代、①米ソ両国はすでに「超大国」ではなく、「大国」のひとつになっており、アメリカは太平洋のアジア側から手を引かねばならない(つまりベトナムから手を引け)、②社会主義国との信頼関係の構築が軍事的緊張緩和とアメリカの軍事=経済的負担を軽減する(つまり、中ソと対立するな)と諭していた。

リップマンが自分の発信記事の購読者として想定したのは「有能な政治家、知識人など、社会を動かしている執権層/知識層で、「自律的にものごとを考え社会改革活動を実行する生活者などはほとんどいない」(→リップマンは政治をトータルな視点から考え社会参加できる「公衆publicなどいない」と考え、そうした人たちを想定し、彼らに期待する「理想的民主社会」などはないと考えていた。そして、そうした「社会人集団」を「現実には存在しない公衆phantom public」と呼び、まじめに働きながら積極的に社会参加する人びとに期待することはなかった。

☆リップマンの代表的著書は『世論』Public Opinion(掛川トミ子訳、岩波文庫)だが、時事問題では『今日と明日』などを読んでほしい。またリップマンについての研究書としては岩切博史(2011)『W・リップマンと二〇世紀国際政治 哲人ジャーナリストが見たアメリカ外交』志學社、がすぐれている。

つまり、リップマンは世界の力学構造は見通したがその執権層を選んでいる民衆=有権者が力をつけることでしか本来的な意味での社会の質的向上はあり得ない・・・という社会観(倫理観・歴史観・世界観)を持つことはできなった。彼は現実政治の透徹した分析と予測力を持ち、世界の指導者たちを「指導」すれば、世界をよくすることができると考えていたわけだが、その改革手法にはエリート主義の限界があったと筆者は考える。言い換えれば、リップマンは世界の政治指導者にとって、自らの地位を守りながら、これからの世界の動きにたいする選択肢のヒントをその言説のなかにちりばめることができた「政治ジャーナリスト」ではあった。だが、しばしば彼が冠づけられる「哲人」ジャーナリスト=世界が民衆レベルでの質的向上によって真に向上するという認識をもった表現者、情報発信者ではなかったということである。

3.ジョン・デューイとメディアの社会的役割観

その点で、社会改革には社会を底辺から支えている民衆peopleの社会意識を教育によって高め、自分たちが自ら社会を支え、変えていくのだと考え行動できる人たちを増やす、そうした民衆を「まともな判断力をもち行動できる」民衆=「公衆public」に育てることこそが社会に公共情報をつたえるメディアの役割であると考えたのがジョン・デューイ(John Dewey、1859 – 1952年)である。その点でデューイには後述するロバート・ハッチンスに通じるものがある。

デューイはプラグマティズムの代表的哲学者、民衆主義者/ポピュリストといわれ、彼が書いたThe Public and its Problems(1927年刊、『公衆とその諸問題: 現代政治の基礎』阿部齊改訳、2014年、ちくま学芸文庫)はその2年後、リップマンのPhantom Public(『幻の公衆』(1925年刊)への応答としてその二年後に発行され、「民主」主義populismの大切さを説いた。ジャーナリズムはエリートを対象とするものだと考えたリップマンとは対照的に、「民主」主義はホームHomeという近隣社会における信頼関係に根ざしたゆるやかな組織とそこをベースにした活動によって相互が意識の向上をしながら作る=「大社会」(Great Community)になることが理想的で、ジャーナリズムはそうした社会形成にこそ貢献すべきだ・・・と説いた。

アメリカ思想史の入門書の多くはデューイについて、「プラグマティズムの代表的哲学者、民衆主義者=ポピュリスト(この用語は現在の政治・メディア用語では大衆迎合・依存主義などの意味になっているがデューイのとらえ方は違う!)」などと解説している。
今の米国メディア界ではリップマン的に政治指導者たちを啓発するジャーナリズム論と民衆に貢献できるメディアの育成というデューイ的解釈との違いが「リップマンvsデューイ論争」といわれ、自由主義/商業主義圏における良質なメディアとジャーナリズムの社会的役割を問うときの論点になっている。こうした議論は日本のメディア界においても大切なことであるはずだが残念ながら、日本にはこの論争そのものが起きていない。現実の政治・経済の動きが先行し、メディアはその「報告者」になり、学界の問題意識もそうした傾向が強い。

ジャーナリストにとって、まずはリップマンのように現実を冷徹な眼で見つめ、ものごとを大きな観点から捉えることが重要である。しかし社会を支えているのはあくまで民衆であり、社会に存在する矛盾を解くにはなによりも民衆の幸せ確保という視点が大事だ。そのための政治行動は、国家は「公衆から構成された大共同体Great Community」であり、「その大共同体が連合しているのが世界である」ととらえ、それを実現するのがメディアとコミュニケーションであるとデューイは考えた。

その著書『公衆とその諸問題: 現代政治の基礎』から引いておく。
「公衆はその政府を通して国家へと組織されるのであるから、国家のあり方はその公職者のあり方と同じである。公職者に対する市民のたえざる監視と批判によってのみ、国家は完全性と有用性とを備えた状態に保たれるのである」(p.89)

4.ハッチンス委員会報告書:『自由で責任あるメディア』の社会的責任論

宗教信仰は最終的にその宇宙観を「信じる」人たちによって構成されるが、学問はわからないことを「わからない」と明言し、誰にも理論的に理解できるように説明しようとする試みから始まる。だから学問が医学や天文学、哲学から始まったのは当然だし、それらに比較して社会現象の一部を対象としたメディア・情報学の歴史が短いのも当然である。といっても情報とその伝達は人間の社会観を形成する重要なものだから、ギリシャ・ローマの時代から情報への関心はあったし、とりわけ20世紀に入ってからは緻密な研究や仕事の積み重ねがある。

上述したリップマンとデューイの対立は両者の社会に対する姿勢=社会観(倫理観・歴史観・世界観)の違いに基づくものであったが、その点でも今の私たちにはもうすこしメディアの実際に即した議論が必要になる。本稿の場合、それは日本とアメリカとの関係を一人の日本人としてそのイメージを現地で再点検しながら修正するためのレンタカー旅行だったから、理論的な記述法を採っていない。

だが、今回はまとめの報告であり、メディアの社会的責任論の必須的文献として、世界のメディア倫理研究者が例外なく言及する、米国ハッチンス委員会(プレスの自由委員会)報告書『自由で責任あるメディア』Free and Responsible Press(和訳は拙訳で「自由で責任あるメディア」論創社刊、2008年)に触れておかねばならない。

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写真4.米国プレス自由委員会著(原著は1946年刊)、渡辺武達訳(2008年)『自由で責任あるメディア』

この報告書はシカゴ大学のロバート・ハッチンス総長(Chancellor Robert Hutchins、1899-1977)が友人のブリタニカ百科事典社社長からの金銭的援助を基に、当時のすぐれたアメリカの思想家と学者、メディア従事者等を集めて議論し、まとめたもの(筆者による和訳版巻末の解説を参照)。この報告書のすぐれたところは、「言論・表現の自由」について、「①自由であると同時に、②責任ある言論」とは何かを実際のメディア活動の現場からの証言、各界の重鎮と実務家および識者たちとの何回もの合宿やセミナーによる議論を繰り返して究明したことである。

ハッチンスは第二次世界大戦の起きた理由をメディアが国民に間違った情報を提供し戦意と対立を煽ったことに大きな原因があったと考えた。「メディアは社会の真実を人びとに伝える道具」であるはずなのになぜ、当時のアメリカのメディアが政治的権力への迎合と企業利益主義のため、その逆の行動を採ったのか。その解明をすることなく、今後のメディアのあり方について、誤りのない情報提供機関としてのメディアの社会的保障制度を具体的に提言することなどできはしない・・・としてそれを実行した。

☆くわしくはその第6章「今、何ができるのか――13の勧告」pp.89-118を参照)。

この本の第2章「メディアに求められること」には次のようなきわめて当たり前のことが書かれている。
第二章 要請事項
     日々の出来事についての真実で総合的かつ知的な報道
     意見や批評の交換のフォーラム
     社会構成集団の明示
     社会的目標と価値観の提示
     最高機密へのアクセス

ところがアメリカのメディア事業界はメディア・ジャーナリズムの規範として当然のそれらの勧告/提言をたいした議論もせずに、実行不可能だとして「お蔵入り」させてしまった。ここではその発行後、10年たった1956年にハッチンス自身が書いた本『随想:自由・教育・財源 1946-1956年』Freedom, Education and The Fund(写真5)を基にして、私自身のメディア社会論を記しておきたい。

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写真5 R.ハッチンス『随想:自由・教育・財源 1946-1956年』Meridian Books, 1956年発行  

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写真6.その本の目次前ページにある青インクで書かれたハッチンスの自署には「愛をこめて、ボブより」(ボブはロバートの愛称)とある。

5.ハッチンスの考え方の基本

タイトル通り、ハッチンスは健全なメディアが存在する社会的条件を3つのキーワード①自由freedom、②教育education、③財源fundの共存状態であるととらえている。

「(理想的)報道機関pressは正確な情報を運ぶものであり、(利用者の)討論の場となるか、すくなくとも「誠意ある意見honest opinion」を誠意ある仕方で提供する。また、学問の場は真実を追究し、相互にそれらを議論し、誰にも干渉されることなく、社会を批判できるものでなければならない」(序文)

「教育の義務とは現状のゆがみを本来あるべき状態に設定しなおすことである」「大学についての最善の定義は、私の考えの及ぶかぎりでは、独立した思考の拠点だということだ。そうした拠点がどのような社会であっても進歩にとって、さらにいえば(社会的)安全保障にとってさえ不可欠である」(p.152)。また当時、世界的に勢力を増してきていたソビエト型共産主義(communism)については「私たちはアメリカ国内であろうと国外であろうと、いかなる形にせよ、人間の心に対する専制tyrannyを許してはならない。ある思想ideaに打ち克つ方法はそれよりベターな思想を作ることでしかなしえない。だが、私たちはすでにそれを持っている。‘自由’freedomと‘正義’justiceである」(p.226)。そしてその考え方としての市民的自由civil libertyの一般化には「公衆教育campaign of popular educationによってそれが多くの市民の常識とならなければならない」「その基礎作業をするためには財源Fundが必要であり・・・」などと説く。

つまり、ハッチンスの社会改革は教育により、まともな市民層を形成し、そのことによって社会を強くする、それが出来るもしくはそれをやらねばならないのが制度としての学校であり、社会教育機関としてのマスメディアであると考えた。教育とはそのようなものであるとに考えると、日本の政界と大学人たち(大学の募集要項を見る限り)の教育思想のなんと貧しいことか・・・

☆このハッチンス委員会報告書では当時のメディア(新聞・ラジオ・映画など)が企業利益のために過度にエンタメ化(娯楽化)している状況をきびしく批判した。メディアのエンタメ化の多くは読者・視聴者が喜び、実際そうしたことで大きな利益が得られるとメディア経営者が考えることからきている。半面、社会の中で娯楽の果たす役割も大きく、両者の適切なバランスと緻密な議論が必要であろう。

6.実践者としてのデイビッド・ハルバースタムとピーター・アーネット

 本稿冒頭にハルバースタム、アーネット両ジャーナリストと筆者との出会い写真を掲載した。理由は日本人がアメリカを見るとき、もしくはメディア報道について考えるとき、二つの極端に異なったイメージからながめる傾向があるからだ。第1のそれは、自由と民主主義の総本山で、経済的に豊かだというアメリカ像。第2は人種差別と貧富の差が大きく、世界的には軍事力の誇示で、迷惑を顧みず世界中の紛争に武力によって参戦したがる好戦国家像。

 前者はアメリカ的価値観を①デモクラシーdemocracy②自由freedom③解放liberty④平和peace⑤愛 loveの五つのプラス価値に代表させ、政界や財界が振りまく米国像の基本型になっている。そう信じるのは自由だが、間もなく来日して日本国内数か所で講演する、ベトナム戦争時、米空母イントレッピッドから脱走したクレイグ・アンダーソン氏(Craig Anderson)のように、「アメリカは好戦国家であり、そのことで社会を維持してきたがその方向転換が必要だ、その実行を試みたのがかつてのマルチン・ルーサー・キング牧師やモハメド・アリ氏(ボクサー)。二人はそれを具体的な行動によって実践し、体制悪に抵抗した・・・」という立場に分かれる。

☆アンダーソン氏は1967年10月3日、米空母イントレッピッドから全4人で脱走、ソ連船バイカル号にて1967年11月11日、横浜出港。本日(2017.10.22)来日し、12日間日本に滞在、「My Life as a Patriotic Deserter」(愛国的脱走兵としての私の生き方)のタイトルで京都や沖縄で講演する予定。

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写真7. 日本からの最初の米軍脱走兵クレイ・アンダーソン氏を迎える京都集会案内。


筆者はどのような国家も国民も社会も内部に多様性あり、それは力学関係で表面にあらわれるイメージだけが違ってくるのだと考える。だがその「好戦性」は今日(2017年10月20日)現在の日本の社会状況のように、操作された数値で経済好況を宣伝し、一方的に北朝鮮の危険性を煽り国民の不安感を醸成して支持率を高める現自民党政権。それはトランプ政治のやり方そのものであり、そのことが作り出す社会的気分が主流メディアの加担によって世の中に蔓延しつつあるのが現在だと思う。

筆者は昨年6月の英国のEU離脱決定直後、英国レスターで開催されたメディアの国際学会(IAMCR=国際メディアコミュニケーション研究学会)に参加した。だがそこでの関連パネルや発言は事後説明ばかりでグローバルな平和・安定社会の構築にはどうすればいいのか?という視点が欠如していた。またこの六月には生活者レベルでのトランプ政治を知るため、このブログで連載してきたような米大陸西半部の横断移動をし、生活者の視点からのアメリカ人の実感を切り取ってきた。
同様なことは英米だけではなく、他のヨーロッパ諸国の社会変化としても起きつつある。だが、大事なのは表面現象だけに振り回されてはいけないということだ。今の国家は「世界共同体へ向かう暫定的な自治体」にすぎず、現在は「一歩後退、二歩前進」という動きの「後退期」にあるという認識こそが求められている。そのことは戦国時代が統一された江戸時代社会に、それから明治維新で廃藩置県が実行された日本。続いてアジアと世界の戦争に突っ込んでいき、広島と長崎に原爆を落とされる状況を経て、第二次大戦後の現在状況ができたこと・・・といった歴史の動きを冷静に見つめれば、すぐ理解できる。

記事と面談によって世界の指導者を啓発した、先述の政治ジャーナリスト、故W・リップマンは1960年代のベトナム戦争中、米ソは「超大国」から「大国」へ衰退し、アジアへのアメリカの影響力は限定的になったといった(『昨日と今日』)。とすれば、今の国際状況における日本は中国、韓国と組んだほうが地理的にも現実論としても北朝鮮に対して強くて正当な外交力と抑止力を持てる。それを阻害しているのは侵略を認めない日本政府の公式歴史観にあるのだから、それさえ変える努力をすれば、中韓との関係は経済的利害を中心とした「ディール(取引deal)で基本形を決めることができる。つまり、国民間の感情レベルでの対立は小さくなり、東アジア諸国は何事も話し合いによって解決することが可能になるいということだ。

 何かを永続的にするには①汗(人の努力)②知恵(情報とその処理能力)③金(実行をするための財源に加えて④中心になる目的/理想の有益性と公益性の確保が必要だ。冒頭に掲げた二人のジャーナリスト、ハルバースタムとアーネットはアメリカによる第二次大戦後の戦争について、その実相がアメリカ政府の提供した情報とはまるで違うことを報道によって具体的に示し、国民の判断力に訴え、政府方針を変えさせることに尽力したジャーナリストである。そして二人とも、社会におけるメディアとジャーナリズムの責任について深く理解し、それを行動で示した。そのことによって、長い目で見て、アメリカは世界のどん底に落ちることから救われた。

ハルバースタムはアメリカ南部の小さな新聞社テネシアンの記者から始め、公民権運動を取材、報道し、メディアの側から人種差別撤廃の機運を作った。NYタイムズに移ってからはベトナムへの特派員を志望し、政府発表と現地の様子がどれほど違うかを実例をあげ、有効な脈絡の中で報道し、米国の撤退(実質的敗戦)を早め、結果として米兵数十万人の命を救った。後にハルバースタムは大統領からのホワイトハウスでの食事招待を断ったことを「大統領とのランチの代わりに私はピュリッツァー賞を得た」と冗談のように語っている。ジャーナリストとしてこれほど「かっこいい」言葉はないと筆者は考える。

また彼は、「21世紀の課題」を問われた来日時(1991年)、「世紀の区切りで歴史は変わらない、20世紀をよく生きたものだけが21世紀をよりよくできる」と語ったことも私には忘れられない。

一方、ニュージーランド生まれのピーター・アーネット(1934年11月13日生)はベトナム取材でハルバースタムに助けられ、取材の心とジャーナリズムとは何かを彼の背中を見ながら学習した。その行動の一つにベトナムからの現地情報をカンボジアからメコン川を泳いで渡り、タイ経由で世界に報道したと筆者にも語ってくれた。また安全を確保するために最新の注意をし、戦場では銃と間違えられないように、カメラ部品でも棒状のものは持ち歩かないようにしていたと語ってくれた。

2003年の米国によるバグダッドに向けたミサイル攻撃というイラク戦争開始時、当時のブッシュ米大統領が米軍発射ミサイルの着弾をアーネットによる、バグダッド現地からの携帯衛星送信装置を利用したCNN中継によって知ることになった。それほどの行動のできるアーネットはブッシユ政権に毛嫌いされ、この戦争時、偽情報をつかまされ一時、主流メディアから締め出されることさえあった。人間性と倫理を社会に取り戻そうとする責任あるジャーナリストには体制利権擁護側からの謀略的攻撃にさらされる危険がたえずあるということだ。

☆ピーター・アーネット著、沼沢洽治訳(1995)『戦争特派員―CNN名物記者の自伝』新潮社。原書名:LIVE FROM THE BATTLEFIELD: From Vietnam to Baghdad 35 Years in the World’s War Zones。

☆これら2人のジャーナリストについては以下を参照されたい。
D・ハルバースタム「地球村からレポートする 知りたがるものより、知るべきものを」『世界』1992年2月号、pp.176-188、D・デーヴィド・ハルバースタム『メディア用語基本事典』(世界思想社、2011年)pp.305-306。
アーネットについては、筆者との〔対談「戦場ジャーナリストの役割――ピーター・アーネットとの対話」渡辺武達(2014)『メディアリテラシーとデモクラシー』論創社、pp.212-8 。そこにはジャーナリストの使命が簡潔に述べられている。アーネットの講演記録は同志社大学『アメリカ研究』第5号に収録されている。

学生時代の卒論で参考にしたジョン・スタインベックの旅行記『チャーリーとの旅~アメリカを探し求めて』(Travels with Charley in Search of America, 1962)をまねた私のアメリカ再確認の旅レポートはひとまずここで終わる。私の場合は「妻との旅」で、副題は「適切な日米関係を求めて」であったのだが・・・。

☆おことわり: 本レポートにインタビューイー(インタビューの受け手)として登場した人の名前は本人の希望で変更している場合がある。

2017年10月22日、第17回衆議院議員選挙投票日に本稿最終回を記す)
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アメリカ時代の「終わりの始まり」~米国横断の旅から、その12~ スーフォールズ(サウスダコタ州)から最終目的地オマハ(ネブラスカ州)、そして帰国

スーフォールズの宿泊モーテルを出て(2017年6月11日、日曜日)、前日に訪れた景勝「滝公園」Falls Parkから尖塔の見えた教会付近に行ってみた。前回記したように、欧米の教会はたいてい街、すくなくとも旧市街の中心部にある、もしくはその付近が住宅地になっておれば、そこには中間層以上の豊かな人たち、これまでのアメリカ社会での中核を占めてきた、あるいは現在占めている人たちが住んでおり、その確認をしておきたかったからである(写真1)。

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写真1.アメリカ富裕層の典型的な住宅街(スーフォールズ)。緑豊かで静かな環境が保たれている

ユタ州のソルトレイクシティのモルモン教(末日聖徒イエス・キリスト教会で、1830年にアメリカ合衆国でジョセフ・スミス・ジュニアによって創始された)が典型的だが、開拓時代の苦しい生活に打ち克ち、異国にそれなりのライフスタイルを確立するには何らかの心の支えが必要だ、その役割を果たしたのが宗教であったということでもある。また、そのことはイスラム教国のシリアやリビアなどでも同様であることはテレビ取材でアラブ諸国を歩いた私自身の経験からも解っていたからである。

 そこへ実際に行って散策してみると、教会の後方がすこし高台になっており、静かな住宅地に適する地形で、樹木の大きさからみても新興地域ではない。またどこの家のガレージにもあった年収をシンボリックに示す高級車があった。

スーフォールズから最終目的地オマハ(ネブラスカ州)へ

 スーフォールズからオマハまでは車で3時間ほど、道路も緑豊かな草原を突っ切るようで快適なドライブであった。
☆オマハまでの距離は185 マイル=約300キロ、I-29 S 国道29号線南方面行き。

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写真2.オマハ(ネブラスカ州)へ向かう道路脇の草原。

 ネブラスカ州最大の都市オマハ(人口約45万人)に到着した時は空に雲が多くなっていたが時間はまだ午後3時頃であった。翌日が雨になりそうな雲行きであったから、宿舎入り前にネブラスカ大学オマハ学舎を訪れることにした。

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写真3.ネブラスカ大学オマハ学舎(左)とその校章(右)、空は雨が降りそうな雲行き。

ここのキャンパスも広大で、駐車場に車を入れ、いつものようにまずは図書館に寄ってみた(図書館を見ればそこのだいたいの知的活動レベルが分かるからである)。中へ入ると受付の向かい側に全8局の主要テレビ画面が同時に映され、その前にゆったりと座って視聴できるイスが置いてある。現時点でアメリカの主要ネットワークが何について報じているか、どういう番組構成をしているかを時間に合わせてとりあえずつかめる設備で、とても便利であり、映像時代を表すものである。

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写真4. ネブラスカ大学オマハ学舎図書館入口右側の8台のテレビ受像機

その反対にアメリカの大学図書館にほぼ共通しているのは館内の目立つところに新聞閲覧コーナーがないこと。館員に聞いてみると、主要紙は紙媒体でも用意しているが学生のほとんどが利用しない。研究用に一定期間は保管しているが、学生たちは実際に必要なときにはネットで有料、無料の両方で閲覧できるし、過去記事も検索できる。そのため、紙媒体として、常時閲覧用に備えておくのは利用頻度からも経費面からもあまり適切ではないということであった。つまり新聞はほとんど用なし扱いになっている。

許可を貰って館内を歩くと書架のよく目立つところに日本マンガの英訳版なども多く並び、日本のポップカルチャーの持つ大きな影響を実感した。

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写真5.日本の漫画の英訳本コーナー。

☆たいていの公共施設では「同志社大学名誉教授」の名刺を見せるとすぐ入れてくれ、自由に中を歩き回れた。

女性ガーデナー(庭師)さんにインタビュー

図書館前の中庭に出てみると女性ガーデナーさんがゴム手袋をして花の植え替えや水はけの調整など、土にまみれて花壇の手入れをしていた。日本から来たがと挨拶してインタビューをお願いすると「ちょうど一息入れようと思っていたところで・・・」と気さくに応じてくれ、根っこむき出しの花を持って写真も撮らせてくれた。

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写真6.大学と契約している女性ガーデナー(左)のアンナさん(45)

「私はカリフォルニア生まれで、若い時から花や観葉植物が好きでした。そのうち、親しくなった日本人から庭造りを教えてもらい、自分でも勉強しました。そうした手伝いをしているうちに職業としても自立できるほどになり、大学などの公共施設からその庭園の花が一年中何かが咲いているような設計などを任せられるようになりました。そうしたとき、夫がこちらネブラスカへ転職することになり、今こうして仕事をしているのです。

 トランプさんのことは大統領である間は彼がアメリカ政府の代表であり、私たちアメリカ人は彼を尊重しなければならないけど、とくに私のようにカリフォルニアから来た人間には、農業が代表的な分野ですが、合法か非合法かは別にして、移民なくしてアメリカの農業が成立しないことはだれもが理解しています。だからトランプさんの移民政策が実効力をもつなんていう人なんかいないわよ。だけど、アメリカ人でかつての工業繁栄地帯の人や、西部劇風の気分で人生を楽しんでいる人たちの多くはトランプはおもしろい、しばらくは見てみようじゃないかって思っているのよ。私は仕事上、大学関係者、とくに職員やキャンパスでの学生たちとおしゃべりすることが多いけど、その人たちはトランプを自分たちの仲間だとは見ていないわ・・・」

 大学キャンパスを出て、途中のファミレスでサラダとピザでサパー(軽い夕食)を取り、アメリカ最後の宿泊モーテルに入った。

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写真7.最終目的地オマハ(ネブラスカ州)のモーテルに2泊、New Victorian Inn & Suites Omaha。

 このモーテルにも機材は古いがフィットネスクラブがあり、部屋に入って荷物の整理をしてからそこで一汗流した(ちなみにプールは修理中ということで使えなかった)。別に疲れているわけではないが、運転で使うのはアクセルを踏む右足がほとんどだし、ハンドルは電動で軽いので筋肉、とくに手足をすこししか動かさない。そのため、こうしたフィットネスクラブでのウォーキングやダンベルによる筋トレは気分的にもとてもさわやかになり、気持ちのよいものだ。

オマハの街、鉄道博物館(THE DURHAM MUSEUM)などを見学

 翌朝は7時にホテルの入口ラウンジでトーストとコーヒー、果物などで朝食。ここはオマハ国際空港(正式名はエプリー・エアフィールドEppley Airfield)から近く、早朝便利用者のため、軽食堂は5時から無料利用できる。翌朝は5時に朝食、5:30出発でホテルの車で空港まで送ってもらう予約をした(このシャトルサービス=空港からの送迎は宿泊料金に入っている)。
 この日は予想どおり、朝起きると雨であった。アメリカへ来て以来、ボウルダー入りした6月6日の「ひょう」(hail雹)、そしてこの日の雨以外は天気に恵まれてきた。自然の力には抵抗はできず、雨の中をドライブしながら、屋根付きで見学できるところとして旧オマハユニオン駅が鉄道博物館(THE DURHAM MUSEUM)になっているところへ行ってみることにした。この街は大陸横断鉄道の拠点の一つとしても発達してきた歴史があるからである。

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写真8. オマハ鉄道博物館の豪華なエントランスホール(2階)。地上階(階下)の展示物も充実していた。


この博物館のエントランスホール(現在は入館者の受付がある)は1971年5月2日の客車が到着した最終営業終了日までユニオンパシフィック鉄道利用者の待合室で、今もその輝くばかりの豪華さでかつての賑わいが想像できるものであった(写真8)。受付できいてみると通常は小学生などの見学も多い教育施設で、入場者も親子連れが多く、設置者もそうした意味での歴史教育施設として維持しているのだと見てとれた。

入り口は線路をまたいだ陸橋状道路に面しており、客車実物(一等車、普通車、寝台車)はその階下の地上部分に置かれ、実際に見学者はそのなかを歩くことができた。とりわけ、一等車の居住空間はそれぞれの部屋のスペースも大きく、トイレもコンパートメントごとに単独設置され、設えも至れり尽くせり・・・運賃も高そうで「金持ち」たちの利用を想定したものであった。

 この博物館内にはこの鉄道に関係した時代のオマハ市民の生活や消防・警察などの自治体活動等の展示紹介もされていた。現在は旧待合室の一角喫茶店風の軽食堂になっており、私たちも見学後にソフトドリンクとサンドイッチでのランチをとってから空港近くのアラモレンタカー営業所に向かった。
午後3時までにレンタカーを空港近くの返却場に持っていく契約になっており、先述のようにホテルには空港との無料送迎サービスがあり、その返却場所DROP OFF LOCATIONまでホテルから迎えの車が来てくれることになっていたからである。

 そこへ迎えに来てくれた運転手さんがホテルのアシスタントマネージャーで二児の母、キティさん(34、白人)であった。彼女とは空港近くのアラモレンタカー返却場からホテルまでの約30分、トランプ政治についての意見交換をすることができた。

 「女の子2人の子育て中だけど私が仕事にでている間はおじいちゃん、おばあちゃんが保育園の送り迎えや面倒をみてくれている。アメリカでもそういう家庭はすくなくないわ。でも子どもは私の宝だから、普通の人よりは勤務時間を短く、それも昼間だけにしてもらっているの。自分はオマハ市内の生まれで、地元のコミュニティーカレッジ(短大)を出て、この仕事を楽しみながらやっている・・・だけどこういう仕事は気を使うし外から見えるよりも大変よ。トランプさんのせいではないけど、自分たちの小規模宿泊業はだんだんと景気が悪くなってきていて・・・だけど、トランプさんが小規模ホテル業界復興を考えているとは思えないし・・・また彼にはどうみても知性はないけど、ああいうタイプが選挙に強いのは理解できる・・・だって元気がよくてアメリカ人らしいし、なんかやってくれるのではという期待を持たせるからよ・・・実際はそうでもないだろうけど」

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写真9.ホテルのアシスタントマネージャー、キティさん。 

アメリカのタットゥ(tattoo)文化と日本の入れ墨
 
そのキティさんの運転する車の後部座席からインタビューしたのだが背後から見る彼女のうなじ部分にどうも日本語のカタカナらしいタットゥが見える。それは何かと尋ねてその答えに驚いた。主人と付き合い始めたとき、日本人の友だちにそのボーイフレンド(今の夫)の名前をカタカナで書いてもらい、タットゥショップ(tatto-oshop)に行ってきたの・・・だって、ふつうのアメリカ人には日本語は読めなくて、その文字はきれいなデザイン」に見えるし、それだけ彼を愛していたから・・・ということであった。
 
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写真10.キティさんのタットゥ(tattoo入れ墨)、妻にTシャツの後ろえりを下げてもらった。

 このキティさんはふつうのアメリカ人だ。アメリカにはタットゥによる「おしゃれ」文化が男女ともに完全に定着している。現在でも多くの日本人は「入れ墨」はヤクザ=暴力団のシンボル文化だと考える傾向があり、街の銭湯/公衆浴場やスポーツジムなどでは「入れ墨のある方はご遠慮ください」と書いているところが多い(この10年通っている近くのスポーツジムOTSU ITOMAN SPORTSでもそうだ)。

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写真7. 大津イトマンスポーツセンターの「刺青・タトゥー」お断りの掲示板
 

また、筆者は45年間、大学で教えてきたが男性も女性も(少なくとも他人が分かるような形で)入れ墨をしている学生にいちども出会ったことがないし、うわさにも聞いたことがない。ただし、韓国へ出かけて、眉毛部分に墨を入れてきた女子学生がこれまでに一人だけいた(そうした美容的なことはままあるらしい)。ただし、沖縄へゼミ研修に行って、女子学生たちが水着になったときにわかったのだが、飾りにセロハン状の花模様をファッションとして腕や足に貼り付けていた者が何人かいた。しかしそれは消そうと思えばはがせば済むものだからタットゥ(tattoo入れ墨)とは違うものだ。
 ☆キティさんの場合、もし彫ってしまってからボーイフレンドと別れたらちょっとまずいのでは?と余計なことを考えてしまったが、誰にもカタカナナなんて読めないから、まあいいか?とすこし安心した。帰国してからその方面に詳しいひとに聞いたら、アメリカのタットゥは深く彫り込んではいないので比較的簡単に消せるらしい。

早朝(6月13日)、飛行場へ向かう途中、最後のインタビュー

翌朝5時、フロント前のカフェで朝食、そして5:30にホテル発。今度はホテルの営業主任のマイクさん(48)がドライバー役で空港まで送ってくれた。そして車中でオマハ3人目、今回のアメリカ横断旅行での最後のインタビューをすることになった。

「自分はこの仕事に就くまでここから車で3時間ほど離れたところでセールスマンをしていたのですが、ビジネスがうまくいかなくなって今のホテルでの営業担当になりました。でも家族は元のところに生活基盤ができているから自分だけが単身でこちらに来ました。しかしホテルは24時間営業だから勤務時間も不規則だから、ホテルに部屋をもらってこちらに住み、週一で家族のもとへ帰るという生活です。今のアメリカは私が体験的に感じるだけではなしにこの業界全体が不況で、値上げなどはとてもできないんです。そのため、モーテル業界全体の設備老朽化がすすみ、リニューアルしなければいけないのにそうできないところがほとんどで、皆さん悲鳴をあげています。何が原因なのかは私にはわかりませんが結局はワシントンの政治、経済政策がモーテル業界のような所にまで配慮をしてこなかったからだと思います。ですから、私はトランプ政権がそれを変えてくれるといいと期待していたのですが、ホワイトハウス入りして半年経ってもなにも変わりそうにありません。強気のトランプといえども旧来のアメリカの既得権益構造(Establishment)によるという国のありかたを変えるというのは至難の業だということなんでしょうね。だってトランプもその「エスタブリッシュメント」の一部なんですから・・・」
マイクさんには前日の夜にもフロントで出会った、つまり夜遅くまで勤務していたのに、今朝5:30から30分ほどかけて私たちを飛行場まで送ってくれるのだから大変だ・・・マイクさんのいうふつうに暮らすための条件アップを願う政治を・・・ということばには悲壮感さえ漂っているように私には感じられた。

オマハからの帰国時トラブルの顛末

帰国便はオマハ国際空港(正式名はエプリー・エアフィールドEppley Airfield)07:30発、アメリカン航空AA2209便で、そこからダラス・フォートワース経由で成田まで、さらに成田で乗り換えて伊丹空港へという旅程であった。しかし、空港で荷物のチェックインと旅券などの搭乗手続きをして搭乗ゲート前で待っていても、いっこうにその後の案内がない。

係員にたずねても「もうすこし待て、機材の点検中だから・・・」というばかり。さらに2時間ほど過ぎて、アメリカの国内向けの旅行者から他の便への乗り換え手続きが始まり、日本向けは海外便への乗り継ぎ便確保が必要だということでさらに2時間待たされることになった。

結局、アメリカン航空から全日空の系列便に乗り換えることになり、いったん便が変わると、接続が悪く、日本には当初の成田ではなく羽田に着いた。それが日本時間で夜の10時過ぎ。接続の飛行機や新幹線ももはやなく、飛行機会社が手配した羽田空港近辺のホテルに1泊して、翌日朝に羽田空港に戻り、そこから伊丹空港へ着いたのがお昼過ぎ。
自宅に帰り着いたのは日本時間6月15日の午後4時ごろ。ともかく、途中、安全にかかわる事故もなく、無事帰国できてよかった。

 ☆次回はいろいろあって楽しかったこのアメリカ横断旅行のまとめを現在の日本の政治的ごたごたとともに記したい。
   
本稿「米国横断の旅から、その12」はここまで。(2017年10月2日記)

アメリカ時代の「終わりの始まり」~米国横断の旅から、その11~ (キーストーン、ラピッドシティからスーフォールズ(サウスダコタ州)へ

この日(6月10日/土)は早朝にラシュモア山史跡を再訪してから、ラピッドシティ経由で次の宿泊地スーフォールズ(Sioux Falls/South Dakota)へ向かった。運転時間は合計6時間ほどであった。
☆I-90 E(国道インターステイト90-東行き)経由で366 マイル(約580km)。スーフォールズ(Sioux Falls)での宿泊はMicrotel Inn & Suites。

アメリカ大陸の横断貨物列車

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写真1. 大草原を走る貨物列車 赤い矢印の先が先頭車両のディーゼル機関車。長すぎて最後尾が見えない。

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図1.アムトラック鉄道網。今回、何回も見た列車はサンフランシスコ→ソルトレイクシティ→デンバー→シカゴ間の路線。

空は快晴で、快適なドライブであった。リノ(ネバダ州)を出て、ユタ州のソルトレイクシティへ向かう頃から何回も出会ったがこの日もフリーウェイ(高速道路)に沿って大陸横断の貨物列車が走っていた。車が時速100キロ(約60マイル)だとして判断すると列車はその半分ぐらいのスピードだとわかる。しかしなかなか追い抜けない。妻が数えると132両もが連結され、先頭部分に2台、真ん中部分と最後尾にそれぞれ1台づつのディーゼル機関車がつけられている。一度だけ駅に停車中の列車に近づくと天蓋がない貨車では石炭が積まれていた。雨が防げる屋根付きでドア施錠貨車の積み荷は不明だが、今でも値段がそれほど高くなくて重い荷物、たとえば石炭のようなものは列車を利用することが多く、配送に正確な時間が求められる高価な品の場合は大型トラックが使われている。実際アメリカの道路では大型貨物輸送トレーラーが多く、それらが猛スピードで走っている。

☆アメリカは陸地面積が日本の14倍近く、人口が3倍ほどだから、西海岸や東海岸などの人口稠密地域を除けば、旅行や通勤用の列車網は日本ほど発達していない。2001年、ハーバード大学の客員研究員としてキャンパスのあるケンブリッジ(マサチューセッツ州)に住んでいた時、そこからボストン中心部までは30分ほどで電車利用が便利だった。ときおりニューヨークやワシントンD.Cへ出かけたが訪問先での移動が多いときはレンタカー、そうでないときは列車(上記アムトラック)をボストン乗り換えで利用していた。日本にくらべて座席予約などの事務対応効率がえらく悪かったが乗ってしまえば楽だったからである。

 さて、ラピッドシティからスーフォールズまでのドライブ中、数回、休憩所(Rest Area)を利用したが、何組かのネイティブアメリカンとおぼしき家族に出会った。ネバダ州の砂漠地帯ではこれまで多くの核実験が繰り返されてきて、今も放射能汚染とその被害に苦しむ人たちが多い。その多くがネイティブアメリカンである。彼らの境遇が日本においても北へ北へと追いやられていったアイヌ人たちに重なり、弱い者、社会・政治情勢を知らされないことで、犠牲にされやすい日米共通の現代社会特性について考えさせられた。

スーフォールズの風景

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写真2.スーフォールズの中心街、アメリカの街の中心部には教会(真ん中の尖塔部分)があることが多い。

☆スーフォールズはサウスダコタ州東端に位置し、人口はおよそ17万人、州内最大の都市で、標高は 448m。本田真凜(まりん)がシニアデビューでいきなり優勝して話題になったフィギュアスケート/ISUチャレンジャーシリーズUSインターナショナルクラシック(17年9月)が開催されたソルトレイクシティや長距離走の高地トレーニング地ボウルダー(コロラド州Boulder)などに比較すると標高は1,000mも低い。

スーフォールズ(Sioux Falls→直訳すると「スー族の滝」)へ着いたのは陽が落ちかけた8時ごろ。チェックインしたモーテルには夕食用レストランがなかったから(たいていの
モーテルにはパンとコーヒーなどの朝食用の無料小食堂が出入り口近くにあり、ここもそうであった)、フロントで付近のレストランについて尋ねた。安くて美味しいものならやはりメキシコ料理だね・・・との答えで、そこから車で5分ほどのレストランへ向かった。取り放題のサラダと肉料理(ビーフ・マトン・チキンなど)、ソフトドリンクの注文で一人13ドル(1500円ほど)、味付けは日本人の日常的食事より辛めであったが満腹、確かにお得感があった。

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写真3.サラダバーからの野菜と注文したアスパラとポテト付きビーフ

たいていのガイドブック(ネットの案内情報でも同じ)はこのスーフォールズの見どころの第1に滝公園(フォールズパークFalls Park)を挙げている。翌朝、宿舎を出て、スポーツセンターでインタビューしたシーナさんもこの公園だけは見ておいたほうがいいよと薦めてくれた(後述)。

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写真4.スーフォールズ(Sioux Falls/South Dakota)の景勝地、滝公園Falls Park


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写真5.子ども(左下に2羽)のために餌をさがす親ガモ、滝公園にて。


高台にある駐車場にはすでに数百台の車があり、通路には多くの人が歩き、歓声をあげながら写真を撮っていた。そこから下を眺めると岩場が広がり、その中心部には何段かに分かれた滝が連なっていた(写真4)。しかし近づいてみると、水が黄色く濁り、ゴミまで浮き、なぜだか、悪臭までしていた。

水の濁りや匂いの原因はわからないが、かつてネパールのカトマンズにある名所の滝に案内された時、同じように水が黄色に濁り、悪臭がしていた。原因はその水がカトマンズ市内を経由してきており、家庭排水で汚れているということであった。ここでは何が原因なのかはわからないが、観光用の人気スポットだと宣伝しているわりにはケアがないのでは?とやや惜しい気がした。しかしそうした環境条件でもエサになるサカナや水草があるらしく、2羽の子供を連れた親ガモがときおり水中に首を突っ込んで何かをコガモに与えていた(写真5)。

シーナさんとのインタビュー


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写真6. ペプシがスポンサーとなったスーフォールズスポーツセンター

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写真7.スポーツセンター前でインタビューに応じてくれたシーナさん。

 アメリカでは多くのモーテルがフリーウェイの出入り口近くにある。車移動でのビジネス旅行者には時間の節約になり便利だからだが、経営するほうにとってもそのほうがパーキング用地を含めた土地取得が容易でもあるからだ。同じ理由で、ショッピングセンターやスポーツ施設などの広い土地を必要とする施設も郊外にできるようになる。それはここスーフォールズでも同じであった。

そこで翌朝(6月10日、日)、この日は日曜でもあり、まずサッカー場や各種スポーツのトレーニングセンターが集中しているところへ出かけた。施設はまずまずであり、それらをのぞき見程度に観察したあと、センター前の公園で本を読んでいた若い女性、シーナさん(28)にインタビューした(こういう時、妻と同行していると相手は安心してくれる)。

「こちらの高校を出てから、電子部品関連の工場で働きはじめたの・・・その工場が日本との取引があり、私は日本の九州の工場へ研修に行って、半年ほど福岡に住みました。日本人はみんな親切で優しく、とても楽しかった。会社の友だちとは仕事の後や休みには食べたり飲んだり、4月には満開の桜の下で宴会もしたけど、びっくりしたのは誰も政治のことを話題にしなかったこと。アメリカでも政治の話ばかりしているわけではないけど、集まれば、地元の知事選挙などでも親しい人だけではなく、他の人が混じったグループでも政治はどうあるべきか、だれに社会運営を託すべきかといったことが話題になるわ・・・米日のその違いが私には驚きでした。アメリカだったら、現に私の工場でもみんなが集まれば、次の大統領には誰がいいのかという話で盛り上がるわ。日本の工場でもパートの人が多くいるし、その人たちの生活が安定しているわけでもないのに・・・。もちろん、アメリカではツイッターやフェイスブック(Facebook)といった交流サイト(SNS)中心の情報に基づいた情報で議論しているにすぎないんだけど・・・ 
  
今の工場はまあまあの経営のようだけど、年収は2万ドル弱(200万円ほど)だから、ぜいたくなんて出来ないわ。別にトランプがよいとは思わないけど、ヒラリーでは今までと同じだから、いまの生活から抜け出したくてトランプでもいいか?と私は思ったの。でもあの人はテレビのワイドショーでは面白いキャラだけど、私たちの仕事の現場や待遇について関心があるとは思えない・・・状況が変わりそうにはないし、彼に期待して損したわ。アメリカではやっぱり特殊な技術を身につけているか、いい家に生まれて高い教育を受けないとチャンスというものがなかなか回ってこないの・・・」

たしかに現在の資本主義社会では巧妙に仕組まれた「経済的不平等Economic inequality」が進行している。もちろん、ロシアや中国などの旧社会主義国では別の意味での「社会的不平等」、汚職が横行する深刻な〈忖度社会化〉が現実にある。日米社会でシーナさんのいうような社会の仕組みに多くの人びとが気づきにくいのは「人は努力すればしただけの成果が得られる」という言い方の一面だけが教育でもメディアでも強調され、「努力しただけではどうにもならない」ことが多いという実態と「それを生み出す社会的仕組みに触れること」がある種のタブーになっているからだ。

☆フランスの経済学者、ピケティがいうように、世界中で金持ちたちが巨大資金を元手にその巧妙な運用で利益をあげ、貧富の差がますます拡大している。その仕組みから得られた収益は自分たちの仲間だけに配分され、その関係者だけの生活がよくなること、同時にその金をメディア操作にも使い、時にはメディア企業への投資をおこない、世論操作をしている。このことはパナマ文書に関わる報道で、税率の低いところに本社所在地を移すなどの手法で実質的「脱税」(彼らのいう「節税」をしていることの一部だけが明らかにされた。

また教育制度にしても、ハーバード大学などの授業料は日本の私立大学の3倍以上だが、それでも金融の専門家集団による資金運用で授業料のわりには学内施設がよいし教員の報酬も悪くない。しかも、大学全体の収益のうち授業料の占める割合は3割ほど。つまり、富裕層が金の操作によって社会的優位を保つ仕組みが学問の分野でもできているということだ。他の企業もそうしたやり方で資産を増やし、そのほんの一部をボランティア活動に寄付し、メディアがそれを取り上げ、対外イメージを「寄付社会のプラス価値」を喧伝するということを行っている。

そのことはNHKが放映したパリ経済学校教授、トマ・ピケティの「新資本論講座第5回」(←オンディマンドで視聴できる)でもデータを基に証明されている。同じことはクリントン政権時に労働長官を務めたロバート・ライシュの著書『ザ・ワーク・オブ・ネーション 21世紀資本主義のイメージ』中谷巌訳(1991)ダイヤモンド社刊、を読んでも分かる。

☆日本でいえば、ソフトバンクグループの孫正義氏がトランプ大統領、プーチン大統領、それにサウディアラビアの王様から信頼され、相互に親交があるのは4人には①金を増やし、②権力を維持するために従業員と国民を自らに奉仕させ、犠牲にすることなどなんとも思わないという点での共通性があるからだろう(街中のソフトバンク代理店勤務を経験したことのある元従業員の話を聞いてみよ!)。それに比べると我が国の宰相、安倍晋三氏はトランプとプーチンに利用され、そのことさえ自覚できない愚人であり、国民にとっては迷惑な「トンデモ人」というしかない。

本稿「米国横断の旅から、その11」はここまで。2017年9月25日記)

アメリカ時代の「終わりの始まり」~米国横断の旅から、その10~ (シャイアン/ワイオミング州から大統領岩石彫刻のキーストーン、そしてラピッドシティへ)

シャイアンから次の目的地/宿泊地キーストーンKeystone(サウスダコタ州)に向かった(2017年6月9日)。街を出てしばらくは道路の両側に緑の草原が多かったが丘陵地に入るとしだいに寒冷高地特有の針葉樹林(マツやヒマラヤスギ類)が多くなった。今日の目的地では高校のときの教科書にも出ていた4人の大統領の顔が花崗岩の山の側面に直接彫られたラシュモア山が見られるということで心がはやった。

☆シャイアン(Cheyenne, Wyoming)~キーストン(Keystone, South Dakota)はUS-18 W、US-85 S、4WY-210 E 経由で4時間30 分、270 マイル(約430キロ)。

ラシュモア山史跡で4人の大統領に・・・

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写真1. 岩山に彫られた4人の大統領の顔:左からジョージ・ワシントン(初代)、トーマス・ジェファーソン(第3代)、セオドア・ルーズベルト(第26代)、エイブラハム・リンカーン(第16代)。 詳しくは https://www.nps.gov/moru/planyourvisit/index.htm

そのラシュモア山史跡にいちばん近い街キーストン付近には家族連れでキャンピングカーでそのまま宿泊できる場所が多くあり、その近くにあった小さな牧場のいくつかには牛にまじって黒いヒツジが飼われていた。アメリカへ来て以来、ヒツジの飼育を見たのはここが初めて・・・なぜだかわからないが、推定するに、キャンプ場利用者のバーベキューやジンギスカン料理として「役立っているのでは?」と勝手に想像した。宿泊ホテル前に着くとまだ6時で、日没までに2時間ほどあり、チェックイン前に、15キロほど離れた史跡見学を済ませておくことにした。

史跡訪問用に作られた道路を登りきり入り口に向かうと広い駐車場があり、表示では一台10ドルとなっていた。が、私の風貌を見た係員が私がなにもいわないのに、「シニアは5ドルです、同じ車でなら向こう一年間、何回来られても無料になります・・・」とナンバーを書き込んだ領収書をくれた。といってもレンタカーなので同じ車での再訪はもうありえない・・・と思った。が、その領収書が翌朝役立つことになった。

 というのは、山に彫られた4人の大統領の顔は西を背にして、つまり朝陽(アサヒ)を受けて輝くように彫られている。だから、この時刻では背後からの日光があまりもきつく、顔面が陰になり写真がうまく撮れないばかりか、まぶしくて肉眼でも見にくい・・・それでももう二度とここには来れないと感じたので、回りの他の観光客もそう思っているようでお互いに頼んで記念写真を撮りあった。しかし素人写真では調整がうまくいかず残念な思いが残った。そのため、退場するとき、入口のビジターセンター職員に「明朝は何時からオープンですか?」ときくと、「5:30からですよ」。ラッキー!と翌朝早起きして出直すことにした。同じ思いの訪問客が多いためそうした早朝開門措置がとられていることに感心した。

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写真2.翌6月10日朝の写真、朝6時過ぎにもうこんなに人がいる。

資料にはそれぞれの大統領の顔が8メートルほどもあり、足場を組み、不必要な大きな岩にはダイナマイトを使い、その他はツルハシとノミで彫刻したとある。そのため、直下には砕けた岩が残滓として今も残されていた(希望すれば、直下まで行けるツアーが組まれている)。事業そのものは専門家の指導で不況で仕事にあぶれた労働者の失業対策事業としてなされたといい、それらの関係者の名前まで記念館前の銅板パネルに記されていた。

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写真3.大統領を彫った労働者たちの名前。[ラシュモアの労働者たち1927~1941]とある。

☆ただし、この岩山は先住民族には神が住むところで、そこに人間が生活に必要以上の人工物を造るのは神への冒涜である・・・という訴訟が起こされている。ヨーロッパからの入植者とその末裔たちと先住民たちとの宗教と生活哲学の違いから来ていることでとても難しい問題である。

ネパール人経営のモーテル

宿泊のモーテル・ダコタカウボーイDakota Cowboy Innはキーストンの中心部をすこし外れていた。だが、この近辺にはラシュモア史跡訪問者が多く、この街を出ると次の都市ラピッドシティまでは田舎道がつづくためであろう、街中にやたらとガソリンスタンドが多い。1キロ平方ほどの場所に10軒以上あり、私たちが宿泊したモーテル前にもコンビニ併設のスタンドがあった。モーテルの経営者はチベット人で、その夫婦と話す機会があった。
「ラシュモア史跡を見に来る日本人にはあまり出会わない・・・だけど、ときどき、グループのツアーがあるときいている。日本人の多くはロサンゼルスやニューヨーク、ボストンなどの大都会のほうが好きなのかな?ここへ来るアメリカ人たちはもちろん、ラシュモア史跡に行き、自分たちの歴史を勉強しているけど、付近でキャンプや登山を楽しみ、2~3日ときには1週間以上も滞在していくよ。ここではトランプ大統領の話題はあまり出ないけど、個人的には好きになれないね。なんでも利益だけで考えるのがアメリカ的ビジネスだから仕方がないけど、彼のやり方は言葉でなんといっても、自分が有名になり、結局は自分とその仲間が金持ちになればいいのだと思うよ」

ラピッドシティのホコテンでは「ミセスコンテスト」も

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写真4.ラピッドシティのホコテン(歩行者天国)

この地域の中心都市ラピッドシティまではラシュモア史跡から車で田舎道を北上すること40分ほど。この日6月10日は快晴、しかも土曜日だったから街では各種の催しがあり、市教育委員会City School Administration Center近くがホコテン(歩行者天国)でいくつかの道路が車禁止になっていた。そこにはテントなどを張った軽食店や青天井でのドリンク売り場などが作られ、また「美人コンテスト」・・・といっても水着の若い女性がシナをつくるミスコンではなく、「ミセスコンテストMrs. Contest」などもあり、参加者が愛嬌を振りまいていた。

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写真5.右がMrs. ワールドコンテスト サウスダコタ代表

 私はかつてセイシェル共和国政府観光局日本代表をしていたとき、ミスインターナショナルの審査に関わったことがある。その時のパーティで、世界の「美女」の何人かとおしゃべりしたがたしかに会話はうまかったが紋切型で、おまけに近くで見るとあまりにもお化粧が濃くて、サイボーグのごとく「人工的」で、相手をしていても落ち着かなかった。だがここで出会ったミセスサウスダコタは気さくで、過剰な露出もなく、日常生活的で親しみが持てた。

「誰が大統領になってもアメリカはアメリカだわ、私たちの国は私たちがみんなで作っているの・・・ワシントンやニューヨークで何が起きていても地元がいちばん大事なのよ!トランプさんはやっぱり都会好きで金持ち願望、心の貧しい人かもね!」と笑いながらしゃべってくれた。聞けば、「ミセス」コン世界大会には日本からも参加があるという。

☆帰国してからネットで調べてみると、日本にも「一般社団法人 ミセス日本グランプリ」というのがあり、定期的に大会が開かれていた。それに応募できる「ミセス」としては次のように記されていた。
・現在ミセスである方、あるいは独身でもお子様を育てている方。
・現在独身でお子様が居ない方でも過去に結婚経験がある方。
・タレント事務所やモデル事務所と専属契約が無い方。
・2017年10月27日において30歳代・40歳代・50歳代・60歳代になられる方。

 この歩行者天国の設営はボランティアの人たちの協力によって担われていた。そのなかにユタ州の大学から夏季休暇で地元に帰ってきたケリー君がいた。彼のアメリカ政治観はこうである。「トランプが自分たちの大統領というのはちょっと恥ずかしい・・・だけど、今のアメリカ型選挙ではメディアを使ってうまく自分を売り込んだものが勝つわけだから仕方がない。でもこれまでの政治家たちが言ったりやったりしてきたことが人びとの間に受け取られたことが「印象として積み重なって」トランプが選ばれたのだから、それに不満であればつぎの選挙でベターな政治家を選ぶしかない・・・オバマが選ばれた時、彼がこれまでのやり方を変えてくれると期待した面があるけど、保険制度を含めた社会保障制度面や実質的な人種差別撤廃問題でもイスタブリッシュメント(既得権益層)にはばまれて中途半端になり、トランプがまたそれらをひっくり返している・・・これからアメリカはどうなるでしょうか?」と逆に聞かれてしまった。

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写真6. ホコ天手伝いの大学生ケリー君(左)、ラピッドシティにて

本稿「米国横断の旅から、その10」はここまで。2017年9月22日記)

アメリカ時代の「終わりの始まり」~米国横断の旅から、その9~ (ボウルダー/コロラド州から、ララミー/ワイオミング州経由、シャイアン/ワイオミング州へ)

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写真1.ボウルダー市内の朝(コロラド州Boulder

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写真2. コーヒーとサンドイッチで朝ごはん

この日(現地時間2017年月6日8日[木])の移動距離はララミーLaramie(ワイオミング州)経由で宿泊地シャイアンCheyenne(ワイオミング州)までというトータルで約260kmほど、3時間弱という比較的短いものだったので、ホテルを出て市内中心部でパーキング。朝食は街を歩きながら気に入ったカフェで・・・ということにした。冒頭の写真1・2で理解いただけると思うがこのボウルダーは散策にも最高の環境を用意している。
☆ボルダー~ララミー:2 時間 ほど、110 マイル(180km)US-287 経由
ララミー~シャイアン:1時間ほど、50.6 マイル(81km)I-80 E 経由

ララミーへの道路両側は草原と牧場

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写真3. ボウルダーからララミーへの道の両側には草原が続く。

ボウルダー(コロラド州)を出てしばらくするとララミーまでずっとフリーウェイの両側は緑の草原が多い。だが、放牧された牛がところどころで草を食んでいるだけで、馬はあまりみかけず、ニュージーランドとは違いヒツジは一匹も見られなかった(後に訪れる4人の大統領の顔が山の壁面に掘られたラシュモア史跡Mt. Rushmore National Monument 付近で黒毛のヒツジをすこし見かけたが)。この地を舞台にカウボーイたちが「仕事と恋」に躍動し、子供のころ興奮してみていたアメリカからの輸入映画「ララミー牧場」(LALAMIE)の情景とはまるで違う雰囲気であった。  

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写真4. おだやかに草をはむ牛たち

☆『ララミー牧場』(LARAMIE)は、1959年から1963年にかけてアメリカのNBCで放送されたテレビ映画の西部劇。60年代前半のテレビ西部劇の黄金期にローハイドと並んでもっとも視聴率が高かった番組で、日本でも大人気であった。主演はジョン・スミス とロバート・フラー。(参考:Wikipedia)

フリーウェイもまっすぐなところが多く、左右の緑の草原に癒されながら快適に運転できた。大草原の所どころに小さな電柱が立ち、細い電線が伸びている。そこをたどるとかならず、牧場主の家がある。あまり裕福とは見えなかったし、率直にいえば、あまり住みたいとは思えない情景であった。筆者は決して田舎が嫌いではない。しかしその情景は今日の「テレビの中のアメリカ」とも違うものであった。

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写真5. ララミー地区(郡、county)の牧場主の家

道路から仔馬が見えたので側道に車を停めて写真を撮っていると飼い犬が吠えたためか、ジーンズとTシャツ、50前後に見える男のひとが出てきた。「日本から来て、妻とレンタカーで旅行している」と柵越しに挨拶し、テレビドラマの〈ララミー牧場〉の話しを持ち出すと・・・

「あのロマンティックなテレビドラマは都会では評判になったようだけど、当時でさえ現実とはちがったし、今のここはあんな雰囲気などまったくないよ。あの頃だって、かっこよい西部劇なんてなく、テレビの中だけだよ。父親の代からここで牧場経営をやっているけど、だんだんと生活がしにくくなってきた。聞けば、オーストラリアなどの肉やヨーロッパの酪農製品のほうが安いから日本ではアメリカのものはあまり歓迎されてないらしいね。政府は自分たちのような小規模の牛飼いのことなどかまってくれないし・・・うちは昔から共和党支持だ・・・民主党政権ではなんにもしてくれなかった・・・共和党のトランプが大統領になって何か変わるかと思ったけど、彼はどうも政治をおもちゃのようにして遊んでいるだけで・・・結局、金持ちや教育の高い者たちには牧畜や農業の現場なんて初めから興味がなく、理解しようとも考えていないんだろうなー・・・」

とりあえずは「日本では牧畜はもともと多くはないし、あっても小規模だから、農業全体が安い輸入品などで大変で、仕事のきつさのわりに収入が少ないから、若い人で親の仕事を継ごうとする人は少なく、全体的に高齢化し、農村は疲弊している・・・」と答えざるをえなかった。「どこでも同じなんだな・・・」というあきらめぎみな返事であった。
 
「教育」はネイティブアメリカンの今日的武器~Battle of Two Hearts~

ララミーはアメリカ大陸の東西を結ぶ鉄道初期の拠点として栄えた街であり、後にその位置をシャイアンにゆずることになるが今もワイオミング州最大のララミー大学(学生数約13,000人)の本部学舎があり、それなりの活気がある。知人の紹介でそのキャンパスを歩いた。図書館や学生寮、食堂、それに教員ラウンジなどを参観したがどこも金がかかっており、アメリカの著名大学の学費が日本のそれの3~5倍である理由が実感できた。普通の家庭に生まれた若者は大学進学のローンを組むことが多いが卒業までに2~3千万円の借金をする。当然、返せなくなることが多く、それもまた今日のアメリカの貧富の差拡大の原因になっている。

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写真6.ララミー大学の豪華な教員ラウンジ

外へ出ると正門に向かって左側に薄い皮を鞍代わりにし、裸馬にまたがった男性の銅製彫像があった。一目でネイティブアメリカンの族長だとわかるいで立ちで、近づいてみるとその人物は勇者ワシェーキー族長で、台座に彼の言葉が刻まれていた。

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写真7. ララミー大学正面左手にあるワシェーキー族長の騎乗姿

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「私はこれまで自分たちの郷土、自分たちの水源、自分たちが狩猟をするための土地を守るために戦ってきた。だが、それらを守るための武器としてこれから私たちにとって必要なのは教育である」
 人間社会のこれまでの歴史が闘いのそれであったとしても、それだけでは人間社会の歪みは矯正できないし、進歩もない・・・ヘイトスピーチがいまだに続いていることの背景にはそのような現実があるのだろう。しかし現実に向きあいながら、理想に向かって進むことを静かに、そして真摯に考え抜き、行動に移すことによってしか明るい未来は見えてこない。それには人びと全体が社会を見る目を教育によって鍛える必要があるということだろう。
 ここララミーでは大学前のピザ屋でランチをとった。ここのピザもまた巨大!1枚で十分で、水を2本買っても全部で12ドル(約1,300円)。二人でもすこし残してしまい、夜食用に持って帰った。

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写真9.2人でも食べきれなかったピザ

シャイアンCheyenne (Wyoming)という街

ララミーからシャイアンへの途中までは朝来たのと同じルートを戻った。午後3時ごろであったが、来た時以上に大型トラック、トレーラーが多く、しかも同じ会社のマークを付けた車列が続く。晴れだったからよかったが雨なら大きなタイヤから飛び散るしぶきで運転がむずかしかっただろう。ここまで「ひょう」(hail雹)に一度見舞われただけで天候はおおむねよく幸運であった。
シャイアン市はワイオミング州の州都であると同時に、ララミー郡の郡都でもある。といってもワイオミング州は全米50州の中で最も人口が少なく、州都といってもその人口は10万に満たない。ネイティブアメリカンのことを調べたいと思い、まずララミー郡立図書館を訪ねた。日本の同規模の都市のそれに比べて、この図書館には書籍だけではなく、音楽や映画のCDも充実していた。また喫茶室やキッヅルーム、貸し出し用セミナールームなどが完備され、入口から反対側の喫茶室までの通路にはソファが置かれ、借り出した本をコーヒー片手に読むことができる。

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写真10.ララミー郡立図書館

外観からネイティブアメリカンだと分かる白髪の男性が静かに本を読んでいたので、「失礼ですが・・・」といって、ララミ-大学前のワシェーキー族長の話を持ち出し、すこし話を聞いた。いわく、「自分はシャイアン族だ・・・今のアメリカには法的には大きな差別はないが自分たちの立場はアフリカ系黒人たちと違い、もともとの土地所有者であったというプライドがある、それが災いして、現在の私たちには心理的にアメリカ社会に溶け込みにくい面がある・・・役所も自分たちについては観光面での売り出し方しか考えてはいないようで、若者が希望を持ちにくく・・・」とぼぞぼそと話してくれた。いわば、オーストラリアのアボリジニーのような悲哀を感じているようであった。

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写真11.シャイアンにあるララミー郡立図書館4階から州議会議事堂(中央の尖塔)を望む。

シャイアン到着の翌日、市役所や州議会議事堂周辺を散策しながら、役所へ書類を取りに来た白人女性(40代)にインタビューすることができた。

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写真12. ジョアンナさんとシャイアン市役所前にて

「私の一家は昔から共和党支持者でした。ここらあたりの多くの家庭がみなそうで、家では民主党の悪口ばかり・・・私はとくに今度のトランプが好きになれないから家では政治の話はできないの・・・」「日本ではどうなの?」と聞かれたので、日本のふつうの家庭ではあまり政治的な話はしないし、選挙でも業界団体やその種の関係者を除けば、あまり党派性はなく、〈無党派層〉といわれる人たちが半数以上だから、各政党とりわけ政権政党は大金それも政党交付金という税金を使ってメディア利用の世論工作をするという選挙活動をしている・・・アメリカでも北朝鮮問題がメディアの大きな話題だがいまのところ、日本政府は国際政治的にはアメリカの下請けをしているようにみえる」といっておいた。

追記:この項を書き終えたところで、安倍首相が北朝鮮のミサイル発射と核開発問題で、トランプ大統領との連携を強調した強硬姿勢を表明することで、落ち込んだ支持率を上げ、衆議院の解散を考えているという報道がいっせいに流れ出している。私のテレビ制作(「なるほど!ザ、ワールド」のセーシェル取材)でプロデューサーをしてくれた寺本俊司氏がブログにこう書いている。まったくその通りだ。

寺本俊司 9月15日 7:36 ·本当に着弾したら何の意味も無い国民を馬鹿にしたような警報、国民の事が心配ならサッサと北朝鮮に行って解決して来い!全部のテレビが大騒ぎ、この状況の方が空恐ろしい!こんな人災より迫り来る天災台風18号の方を騒ぎましょ!全く頭可笑しいんじゃないか⁉︎

(本稿「米国横断の旅から、その9」はここまで。2017年9月17日記)
プロフィール

twatanab

Author:twatanab
本人略歴

渡辺武達(わたなべ たけさと) Takesato Watanabe, Japan
愛知県生まれ。同志社大学教授(社会学部メディア学科)を経て、現在、同志社大学名誉教授、日本セイシェル協会理事長、京都メディア懇話会会長。国際メディア・コミュニケーション学会国際理事、国内、国外での講演・執筆活動やテレビ出演、セイシェル関連でのテレビ番組コーディネイター等をしている。

メディア関係の社会活動として、同志社大学メディア・コミュニケーション研究センター代表(2003-7)、関西テレビ番組審議会委員(1996-2010)。京都新聞報道審議会委員(2000-2015)、など。(2016年9月現在)

Takesato Watanabe: Professor Emeritus at Doshisha University, Japan, Media& Information AnalystPresident of Kyoto Council on Media Studies and PoliticalScience=CMSPS)Kyoto International Council of International Association for Media and Communication Research=IAMCR Chairman of Japan-Seychelles Friendship Association (As of September2016)

著訳書:『ジャパリッシュのすすめ(朝日新聞社、1983年)、『テレビー「やらせ」と「情報操作」』(三省堂、1995年)、『メディア・トリックの社会学』(世界思想社、1995年)、『メディアと情報は誰のものか』(潮出版社、2000年)、“A Public Betrayed”(『裏切られた大衆』(2004年、米国Regnery刊、A. Gambleと共著)、『メディアと権力』(論創社、2007年)、『メディア・アカウンタビリティと公表行為の自由』(論創社、2009年)、『自由で責任あるメディア』(論創社、2008年)、『メディアへの希望 積極的公正中立主義からの提言』(論創社、2012年)、『メディアリテラシーとデモクラシー 積極的公正中立主義の時代』(論創社、2014年)、『メディア学の現在』(共編、世界思想社、2015年)など。

1980年代からテレビ制作に関わり、ファミリークイズやドキュメンタリー番組を作る。現在はCCTV(中国中央テレビ)英語国際放送などに衛星生中継で出演。専門はメディア社会論、国際コミュニケーション論。

Statement: Takesato Watanabe (as of May 2016)

Takesato Watanabe is Professor Emeritus,Doshisha University, Japan and President of the Kyoto Council on Media Studies and Political Science. After studying Journalism and Mass Communication at Doshisha University, he taught Journalism Ethics and Mass Communication Theory at that university for 25 years. He also acted as an advisor for International Department of The Japan Society for Studies in Journalism and Mass Communication. In his media career, he has been a TV coordinator for over thirty years, a newspaper columnist and a commentator for China Central TV since 2007. He has published over 25 books, including co-authored and edited volumes; also in English, A Public Betrayed: An Inside Look at Japanese Media Atrocities and Their Warnings to the West, published in the United States.

Among his major translations from English into Japanese are A Free and Responsible Press by the Commission on Freedom of the Press (1947) and Denis McQuail’s Media Accountability and Freedom of Publication (2003).

He wishes to contribute to making IAMCR a stronger organization that will play a role in preparing an information environment for world peace through media studies and practices.

Author: Takesato Watanabe, Professor Emeritus at Doshisha University, Japan.

Media & Information Analyst

渡辺武達(メディア・情報学者)

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