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「渡辺武達のメディア寸評」その3 「英国EU離脱」報道に代表される意図的誤導

  この木曜日6月23日(2016年)に行われたEU(欧州連合)離脱の是非を問う国民投票で、英国民は数パーセントの僅差で「離脱」を選んだ。以来本日まで、日本の、というより資本主義主要国のメディアはテレビも新聞もこの件に関する報道であふれ、英語圏では「Brexit」(ブレグジット、BritainとExitの短縮語)という用語まで出来ている。しかし筆者の見聞きする限り、それらの報道からはより多くの人たちが能力を開花させ平和な社会を選択、構築できるために必要な情報を提供するというメディアの「報道責任」というものへの自覚がみられない。

 つまり、人間社会の公正な運営をするために必要な基礎情報が提供されていないということだが、これは、民放でも主要新聞でも同じだし、困ったことに「公共放送NHK」でも類似だということである。

 NHKではわざわざ、ニュースで「在日英国大使」にインタビューして、離脱の理由を聞いたが「これで日英関係がわるくなるわけではない…」などという「何の根拠も意味もない」ことをしゃべらせた(27日)。離脱決定翌日(24日、金曜)のテレビ朝日「朝ナマ」に登場した金融/財政問題専門家は「英国民投票の結果は自分だけではなく専門家のほとんどが予測できなかった…影響はどうなるのか…」などと述べ、進行役の田原総一朗氏をふくめ、番組全体が「不透明」という流行(はやり)ことばを軸に進行した。これは過去一週間のマスメディアに共通した議論・報道の姿勢だが、問題なのはグローバル化という国境のカベの低下という流れへの逆行が起きた、それはどうして起きたかという観点からの自己確認がまずなされなければならない。

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 この英国のEU離脱は大げさな言い方になるが、1937年、日本が国際連盟から脱退し、それをたとえば当時の朝日新聞「『連盟よさらば!連盟、報告書を採択し我が代表堂々退場す』と見出しに掲げ、政府とその決定への賛意を煽った世論操作を思い起こさせる。今から思えば、まさに「不正確」きわまり、国民を誤導したという点では大同小異だといってよいからだ。

 今回の場合、時代状況がそれほどの時代錯誤とごまかしを許さなくなっているだけのことで、英国を含めた欧米列強による長年の植民地収奪構造、軍産複合体が定期的に起こす戦争の犠牲となって難民が生まれ、その結果として彼らが国外に脱出せざるを得なくなった、その人たちの一部が英国に流入し、自分たちの職が奪われ、生活が苦しくなっているのだと信じこまされ、さらにはその原因がEU諸国間の「移動の自由」にあると思い込まされ、今回の離脱「賛成」となって現象したということだ。

 筆者の同志社大学大学院新聞学専攻時代の恩師の一人、和田洋一先生(1903年 - 1993年)は後に治安維持法違反の容疑で未決囚として3年7か月拘束されるが、治安維持法が国会で成立した日は天気がよく、社会も新聞もみな穏やかで、学校では運動会などが開かれていたと回想している。メディアがしっかりと歴史と社会とそれを支える国民・市民に社会の実相とその政経権力(政治と経済が合同した権力)と軍事産業がどのような互恵関係にあり社会を動かしているかを「勇気=ジャーナリスト魂」を持って伝えないと、米国大統領候補のトランプ氏のような躍進が出てくる。いずれもドイツ国民が1930年代から第二次大戦に突き進んだヒトラーによるドイツ支配の世論誘導がメディアの協調によって可能になった構図と酷似している。民衆だけがいかにも短絡的で、一見分かりやすい論理=短期的な損得論理でごまかされ、結局は自分たちがより大きな犠牲になることになってしまうことになる。

 つまりこういうことだ。必要な情報を与えられない人たちが多くなれば、その社会の安定と幸せ追求の社会的制度は選挙によってかならずしも実現されない、実現できない。現在の日米欧や日本のような諸国が採用している憲法や社会制度では、主権を有する国民の意思が絶対的に優先されるのが原則である。それこそが、投票結果が尊重される「選挙絶対民主制度」(Election-based Democracy)であり、だれもそれに異議を挟めない。それがメディアに誤導され、大半が「異見」を持った人たちを「革新的すぎる」として忌避することになる。

 つまり、北朝鮮のような「明白な暴力国家」ではないとしても、現在の私たちが是認している社会の仕組みには「一見民主制」という大きなカラクリがあるということだ。

 より具体的にいえば、その第1は、単純な多数決が絶対的になり、先述の構造のなかで生み出される移民、難民を、じつは自分たちもいつ何時そうなるかもしれないのに、「単純敵視」していることだ。カネやモノ、文化や思想・宗教、人が「境界」(文化的・経済的境)を越える「グローバル化」は国境がなかった時代から人間は経験してきたことで、国家の時代なんてものはローマ帝国や現在の中国の基になっている始皇帝時代の中国など、そして大航海時代のイギリスやスペインなどが「権力集中主義」「弱者支配主義」によって作り出したものに過ぎない。それはキリスト教、イスラム教などの世界の大宗教においてもおなじである。

 第2は、欧州連合といってもこれまでにも、たとえばノルウェーとスイスは欧州にありながらEU非加盟を決め込み、自国の農業や工業製品の保護や輸出促進にプラスになるときだけ、EUとの個別取り決めで問題をしのいできている事実がある。EU結成の思想にはTPP問題にも通奏低音としてつながる問題が内包されている、つまりほとんどのこうした国際関係が世間のどこにもある「損得勘定」を背景に動いているということだ。

 こう考えてくると、今回の「Brexit」(ブレグジット)報道にはメディア関係者による自らの「報道責任」への自覚不能という、潜在的メディア危機があることになる。それこそまさに現代の自由市場主義を標榜した諸国の「選挙絶対視政治決定主義」とそれに準じたメディア報道には「民衆生活の幸せ追求目線」が欠落し、ジャーナリストたち、もしくはメディアワーカー(メディア産業の従事者)全体に、根本から問題を問い直すことがむずかしくなっている、つまり社会全体の情報構造が人びとの心の憶測に「ヘイトスピーチ」を植え付けているということである。それこそが今回のEU問題で、メディア提起の巷間の議論もまたそれを後押ししているといってよい。ENDIT

2016年6月29日 渡辺武達
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「渡辺武達のメディア寸評」その2 テレビ朝日「アリ追悼、対猪木戦再放映」

前回は、たとえ内容が事実だとしても、NHKが北朝鮮の批判だけに異常なほど熱心であることについてふれた。もちろん、その答えは大枠としていえば、NHK幹部が政権政党の意向を慮ってのことだ。そうしたやり方には現場の制作陣が結果として、現在のNHKの経営幹部が安倍政権から間接的に送り込まれている籾井勝人会長の意向を先取りしたといえる。そのことは最近の籾井会長による人事異動にも顕著に表れている。

今回は昨晩(2016年6月12日(日)20:58~23:10)放映された、テレビ朝日「モハメッド・アリ追悼緊急特番!!蘇る伝説!!アントニオ猪木VSアリ世界37ヵ国14億人熱狂完全ノーカット放送」(朝日新聞ラテ欄から)について述べておく。

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これは1976年(昭和51年)6月26日に行われた、新日本プロレスの企画した「格闘技世界一決定戦」として行われた試合を素材にして制作されたものだが、私の感想:第1に、アリはローマ五輪(1960年)のボクシング、ジュニアヘビー級の金メダリストで、スポーツマンとして一流だし、ショービジネスマンとしても傑出していた。それ以上に一人の社会人として「人間ができていた」。猪木も前2項目では日本では抜きんでているとはいえ、社会人としてはその行状からもアリに何歩もゆずるといわねばならない。

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アリが尊敬されるべき第2点は、アリの生きる(生きてきた)哲学である。番組中でも随所に彼のことばが紹介される。たとえば、「何の罪もないアジア人の上に爆弾や銃弾を降らせなければならないのかまったく理解できない、俺たちに何も悪いことをしていない、絶対に拒否する…」(字幕から)といって、ベトナム戦争のための徴兵拒否をした。そして「STOP WORLDWAR Ⅲ NOW」(ただちに止めよう、第3次世界大戦)などとのプラカードも示される。

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そのため、米国政府から告発され、チャンピオンベルトを剥奪されたが裁判でも「自分はアメリカのチャンピオンではなく人類/市民(people)のチャンピオンだから…」と言い続け、3年後に無罪となった。その後のアフリカでのヘビー級の試合で、「チョウのように舞い、ハチのように刺し」、「キンサシャ(開催地)の軌跡」といわれる試合でチャンピオンに返り咲く(32歳)。また生きる姿勢については、「人間が困難に立ち向かう時、恐怖を抱くのは信頼が欠如しているからだ、私は私を信じる」「Impossible is nothing 不可能なんてない」など、と。

筆者は1976年当時、アリVS猪木戦をテレビの実況で見たが多くのメディアがそれを酷評した。しかし筆者にはそれが真剣勝負と思われ、とても感動した記憶がある。それを昨晩の再放映で確認でき、自分の目に狂いはなかったと確認できとてもうれしかった。そしてその後のアリの生き方を思い出し、アリの偉大さをも再確認できた。

番組を今回放映したテレビ朝日はビジネス的にそれを構成したのだろうが、それはそれとして歴史的イベントであり、ドキュメンタリーともいえ、学ぶことがじつに多く、現在のテレビニュースで連日あふれている「舛添要一問題」に較べ、舛添のそれとは正反対の意味で、あるべき人間の生き方の本質を再確認できるすぐれたものであった。

最後に、番組中で、猪木が米国でのプロレス修行中、プロボクシング界から誘われそのデビュー戦に1000米ドルを提示された(画面表示)と出る。しかし、その画面のナレーションでは「当時の金額では300万円以上…」と発言がかぶせられたが、当時の円/ドルは固定制で1ドル360円だったから、30万円以上(正確には36万円)が正しい。

まあ、これぐらいの間違いは大筋に関係はないが、なんでも金で計りたがるテレビの浅はかさであるとはいえ、その視聴者には誤解を与える罪深いものだろう。(2016年6月13日記)

京都メディア懇話会6月例会ご案内と前回5月(第10回)のご報告

<月例会(研究会)第11回>

日 時 2016年6月23日(木)午後6:30~8:00

・会 場 同志社大学寒梅館6階大会議室

・演 題 「市民が主役のNPO放送局:京都三条ラジオカフェ」

・発題者 太田航平氏(FM797京都三条ラジオカフェ)

FM797京都三条ラジオカフェは、日本初の市民が主役のNPO放送局です。 所定の放送利用料で、どなたでもラジオ番組を放送することができます。ラジオカフェの放送は市民自身が企画、制作、出演しています。同局ホームページより → http://radiocafe.jp/ 



<第10回月例研究会のまとめ報告>

日時:2016年5月26日(木)18:30~20:00

・会 場 同志社大学寒梅館6階大会議室

・発題者:畑仲哲雄(龍谷大学准教授)

・演題 〈新聞〉の創造的破壊-上越タイムスを事例に

・発題者略歴:1961年大阪市生まれ。関西大卒。毎日新聞社会部、日経トレンディ編集部、共同通信経済部で取材記者や編集実務に従事。勤務のかたわら2004年から東京大学大学院学際情報学府(旧新聞研)に入学。博士(社会情報学)。2013年から龍谷大学社会学部准教授。著書に(2014)『地域ジャーナリズム – コミュニティとメディアを結びなおす』など。

『発題者から』

〈新聞〉を産業の面からみれば凋落の一途だが、市民社会から必要とされなくなったわけではない。人々のコミュニケーションを促す機能としての〈新聞〉は、むしろ必要とされているといえるのではないか。そのことを体現するひとつの事例が、新潟の地域紙「上越タイムス」である。同紙は1990年代には廃刊目前の赤字経営だったが、紙面の一部をNPOに委譲するなど、〈新聞〉が禁じ手としてきたことを壊し、結果的に発行部数を3倍に伸ばした。この事例から得られる教訓とは・・・・・・

・司会者:齊藤修(京都メディア懇話会理事長、京都新聞ホールディングス顧問)

・コメンテーター:中谷聡(光華女子大学講師、懇話会事務局次長)

 第10回月例会では、 畑仲哲雄氏(龍谷大学社会学部・大学院社会学研究家准教授)が上越タイムス紙(本社:新潟県上越市)を事例として地域ジャーナリズムの現状と可能性について報告した。新潟県の地方紙である上越タイムス(創刊1980年、創立1990年。発行エリアは上越市、妙高市、糸魚川市)は1999年から、NPO(非営利団体)の「くびき野NPOサポートセンター」に紙面の一部を毎週月曜日に提供することを通して紙面制作を展開した。市民に紙面を提供するという経営者の判断に対して、現場のジャーナリストからは編集権の維持という観点から猛反発が起きたものの、2002年には毎週2頁、2004年には毎週4頁と紙面を提供することとなり、それに伴って部数も1997年の5〜7,000部から2010年の20,000部へと飛躍的に拡大した。畑仲氏によれば、この地方紙とNPOの「協働」が持続した背景には、①新聞社側の利益(当初の経営てこ入れ策、など)②NPO側の利益(不特定多数の人に情報が届くこと、など)③地域自治(地方自治)への寄与(地域社会の共助の活性化、など)という「近江商人の三方よし」のような関係性が維持・構築されてきたためだという。加えて、畑仲氏は上越タイムスのジャーナリズムモデル(自律志向の地方自治と参加民主主義の活性化を主な目的とするジャーナリズム)を、従来のいわゆるニューヨークタイムズ型のジャーナリズムモデル(権力監視を主な目的とするジャーナリズム)とは異なる「ジャーナリズム」の1つの型として提示した。

 畑仲氏の報告を受けて、コメンテーターの中谷聡氏(光華女子大学講師)は、若い世代の多くが新聞を購読しなくなっている現状において、上越タイムスの成功事例が(全国紙に広がるのは難しいにせよ)地域紙に普及していくかどうかという問いかけを行った。

 畑仲氏と中谷氏の報告ののち、会場のオーディエンスからも質問や意見が出された。参加者の一人は「市民運動は人間の生き方の1つの過程」であり、NPOによる紙面制作には「違和感」があると述べた。また、研究会当日に回覧された上越タイムスの紙面を読んだ参加者の一人は、充実した上越タイムスのラジオ・テレビ欄から地方紙が学べることがあるのではないかと指摘した。さらには、紙面を提供しているNPOと行政との緊張関係,逆に全国紙ではない地域密着の地域紙だからこそ記事にしにくいトピックもあるのではないか・・・など話題は多岐にわたった。これらの議論を踏まえて、畑仲氏は「全国ニュースはコモディティー化している」との見解を述べ、全国ニュースやインターネット、テレビなどで伝えられないニュースを救いとることができることが上越タイムスの強みであると指摘した。地域密着型の地域紙の研究事例を通して、日本の地域メディア/全国メディアの強みと弱みなどが議論を通して示された。(事務局長:阿部康人)

『参加者の感想』

 1.5月26日(木)の研究会に参加させていただきありがとうございました。研究会の開催については1週間前ぐらいの京都新聞の紹介記事をたまたま滋賀県内で読んだことがきっかけで知りました。私は2011年の東日本震災発生以降に三陸地域で復興関連業務に従事し、その地域の「地域誌」(=石巻日日新聞、東海新報、三陸新報など)が県域紙よりもある種先鋭的な面を持っていると感じた時期がありました。畑仲先生のレクチャーは地域がちがうとはいえ、非常に地域紙のありようを的確にとらえて分析されていたと思います。NPOというある意味では「うさんくさい」存在との協働、また東京の地元出身者向けへの情報発信紙の発行など、地域紙が内包している緊張関係を維持し、地域紙とはいえアクセスの対象を地域的にも読者層としても「越境」していく姿勢は地域からの発信で何を伝えるのか、誰に伝えるのかの戦略を明確にしていることに感心しました。こういうローカル・ラジカリズムが他地域でもおこることを期待しています。(森井雅人)

2.ローカル新聞の発刊継続の困難と現状が理解できました。新聞に限らず、ローカル放送局にも当てはまり「他山の石」ではありません。新聞離れとテレビ離れの原因を「インターネットやスマートフォン等の新ツール出現」と単略化するだけでは自己責任の転嫁になってしまうからです。上越タイムスの紙面に「弱者」が結集することで民の「力」になることがわかりました。そして、当該新聞は「弱者を守ることがメディアの原点の一つであり、大メディアが置き去りにしていたジャーナリズム原点を示唆」してくれています。ローカル放送局が、東京発番組崇拝から細かな地域情報、例えば「ゴミの収集日・・・」情報などの提供にも配慮せねばならないと学びました。今日のメディアの進化を止めているのは、華やかな栄光のあった時代の概念を基本としているのではないのか、タレントの人気に乗っかり、華やかな電飾スタジオからの番組は「偽番組」ではないかとも思えてきました。また、既存の古い価値観を捨て、次世代の若者に新聞や放送を任せてみては・・・。最近、「大学と地域の連携」を主旨に誕生した特定非営利法人「ラジオミックス京都FM870」に予備免許が与えられた。うれしいことである。(土田弘)

                  以上

「報道の積極的公正中立主義」の実践

  放送法とか各種報道機関の編集・倫理綱領などを取り上げて議論されている「報道の客観性と公平・中立」とは何かの議論はたいてい水掛け論か抽象的な言葉遊びの類いの議論で終わってしまう。高市早苗総務省による「政府が放送法や電波法に関して、どのような放送内容についてもなんらの意見を述べ、行動することを妨げるものではない」ということに関し、放送関係者や学者たちの多くが反論したその内容についても同様のことがいえるだろう。

 まず「虚偽はだめで、情報は正確でなければならない・・・」といっても、一見その通りだが、もうすこし踏み込めば、そうした議論では何もいっていないことに等しいことがわかってくる。「事実」「正確」「客観性」はジャーナリストによる取材だけではなく、メディア活動全体のキーワードである。また放送法や日本新聞協会倫理綱領には「不偏不党」「公正」「自律」などの言葉が並んでいるが、それらは方法論もしくは制作現場での初歩的標語であり、メディア企業の現場ではそれを目指した活動がなされているわけではない。それ以上に驚くべきことは業界関係者、多くの学者の間で議論される「不偏不党」「公正」「自律」などは現在議論されているレベルにおいては理論的にも存在しないのだ。

 例を挙げれば、この4月27日(2016年)、米国のバラク・オバマ大統領の広島訪問であらためて話題となった広島と長崎への原爆投下について、米国政府の公式見解だけではなくメディアの大半もそれを米国と連合国側の犠牲を最小に抑え、戦争の早期終結の手段としてやむを得なかったと位置づけてきた。対して、日本メディアは原爆投下被害のあまりの犠牲の大きさと悲惨さに注目し、「過ちは繰り返しませぬ」(広島の平和記念公園の原爆死没者慰霊碑には、「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」とある)・・・と非戦・平和の誓いの原点として、戦後の「八月ジャーナリズム」を形成してきている。あらゆる「社会事象」は立場によって解釈が異なるということだが、メディア活動においても取材対象の選択、取材した情報の解釈、記者個人の能力、上司の判断、見出しのつけ方やアナウンサー(記者)のしゃべり方(書き方)、さらには広告主や政治権力の干渉といった不確定要素が必ず入ってくる。つまりメディア活動の現実的かつ重要な課題はそれら諸要因の存在をまず認識した上で、そこから次の段階として、いかにして国境の違いがもたらす国益思考を脱し、グローバルに通用する社会的利益=公益のある情報発出を努力目標としてメディア活動をしなければ、どだい話にならないということだ。

 このことはいかなる報道も次の三つの制約から免れることができないことからも説明できる。第一、特定メディアが機能できるスペース・時間・容量はかぎられている、第二、同時にそのエンドユーザーである視聴者・読者、あるいはパソコン等の末端利用者にも使用時間や能力に限界がある、第三、それにたいし世の中に存在する情報の量は無限大であることである。つまりすべての報道はネットも含めてこれらの制約にしばられ、利用者・受容者に届き、消費されているわけだ。

 そのため、メディア/情報環境の質を高めるには発出者が「公益性のある」情報を選択し、それらを多角的観点から紹介し、受容者(オーディエンス)がそれらの情報を適切に読み解く能力としての高い「メディアリテラシー」を持つことが大事になる。犯罪報道を例にしてこれを説明すれば、被害者と加害者双方の立場紹介だけではなく、全体の社会構造の中に事件をおいて発生過程を点検し直し、今後の同種事件の防止に役立つ情報提供が求められるということである。

 報道の要諦をそのように理解すれば、前述した「不偏不党」や「中立」の意味が違った面から見えてくる。筆者は「公正とは公衆の利益のために正義を実践すること」だと考えるから、メディアの公正とは「公的利益と社会改革のための情報活動と議論の場の提供」だということになる。筆者はそれを「メディアの積極的公正中立主義(Proactive Doctrineof Media Fairness and Impartiality)」名づけている。

 従来の「不偏不党」と「中立」論は以下の6パターンに分類できる。①左右の両極端を排し、その他の異なった意見をできるだけ多く並列的に列挙する、いわゆるNHK的公平。②さまざまな意見の真ん中をとる、いわゆる中道。③権力は腐敗し、その言動の裏には悪が存在すると考え、権力悪の批判をジャーナリズムの主たる使命とするウオッチドッグ(読者・視聴者に奉仕する番犬)機能。④少数意見(異見)を尊重し、出来るだけ多くの多様な意見を価値評価なしに紹介すること。⑤世論の大勢とその動向を重視し、視聴者・読者のニーズに対応すること。⑥非政治的、非政党的スタンスを保持すること。
 
 しかし、これらの六つの考え方は現行の一般的な報道における発出側姿勢の特徴把握としては役立つが、具体的な例によって分析していくとその非合理性=非現実性がたちまち判明する。たとえば、①のNHK的公平では、穏健な意見は何でもとりあげ検討素材とするから、はずされた左右のいずれかに正答がある場合には大きな誤りをおかす。②では、明らかな詐欺や泥棒行為の警察捜査を例にすれば、メディアが泥棒と警察の言い分を平等に紹介し、情報受容者に判断を委せるという珍妙なことになる。③ではたとえば南米や東南アジアの麻薬王が国家に対抗し、日本でも組織暴力団が暴対法(暴力団員による不当な行為の防止等に関する法律)に抵抗してきたが、麻薬王や暴力集団が善になってしまいかねない。④では、意見はひとによって違うから、すべての意見の紹介など不可能である。⑤では、視聴率や販売部数が指標になり、人びとの興味を引くことが最重要視され、その危険がすでに現実化している。⑥世の中のすべてのことが政治的に動くか、政治的に利用されており、争点を避けた報道ではもはやジャーナリズムとは言えなくなる。

 つまり、メディアは市民生活の快適さ(アメニティ)と安全(セキュリティ)の増進をはかるために、個々の市民と各種中間組織や政府、国際組織等の協力によって自らのメディア活動の環境改善をしていくことが求められているということだ。もちろん、ここでいう「市民」とは、日常生活レベルから世界大にいたる問題のあらゆる次元で、悪に対してすくなくともノーといい、そう行動する自律的(self-disciplinary)で能動的かつ「自由で責任ある」行動している生活者のことである。(2016年6月7日)

(詳しくは以下を参照 渡辺武達『メディアリテラシーとデモクラシー』論創社、「序にかえて」pp.2-11、『メディア用語基本事典』世界思想社、pp.104-5、「積極的公正中立主義の情報政策とメディア活動」pp.154-169、渡辺武達・田口哲也・吉沢健吉編『メディア学の現在』世界思想社、2015年、などを参照されたい。)

「渡辺武達のメディア寸評」その1

 仕事上、地上波6局を全番組録画できる機械を2台購入して設置しているが、昨晩は「スクープドキュメント 北朝鮮“機密ファイル” 知られざる国家の内幕」と、これでもかこれでもかと画面で案内される北朝鮮の内幕モノをNHKスペシャル(2016年6月5日 21:00-21:50)を2回見た。新聞のラテ欄にも「北朝鮮・機密ファイル 金正恩体制の闇に迫る 恐怖政治と粛正の内幕 スクープ!極秘指令書(読売新聞)と派手に宣伝された。

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 1970年代から90年代にかけて4回の北朝鮮訪問の経験のある私にも番組そのものはじつに見応えのあるものであった。しかし、日本の政財界による知られたくない悪事を暴いた「パナマ文書」などでは肝心のことをほとんど報道できていないNHKがなぜ、北朝鮮のことになるとこれほど一生懸命になるのか?ということにメディア学者としては興味をひかれる。

このことについては、本ブログの「現在のメディアに関する雑評」コーナーで取り上げたい。(2016年6月6日)


FIFA金銭汚濁の「真相」構造

 FIFA(国際サッカー連盟)の主催するワールドカップ(W杯)は地球規模の人気スポーツイベントとしては五輪を超え、加盟国数でも五輪組織に迫る。そのFIFAが今、退会会社地決定を巡る幹部役員の収賄汚職問題等で大揺れしている(2015年6月)。そのことは日本の東京2020年五輪問題でも例外ではない。現代の巨大スポーツは例外なく、政治・経済・メディアと金銭的に連動しており、広告や建設/土建といったスポーツとは直接の関係のない人物が多く暗躍している。逆にいえば、そうした人たちの協力がないかぎり、スポーツ人たちだけではそうした巨大イベントは開催できないのが実情だ。そこにメスを入れないかぎり、根本解決にならないことを私たちはまず知っておかねばならないだろう。

 今度のFIFA問題の発覚時、メディアはその副会長や事務担当の理事など、一部の不心得者の「悪行」、欧米先進国とアフリカやラテンアメリカ途上国との対立がその背景などとして報じ、直後に実施された会長選も綱紀粛正を再確認したブラッター氏の続投で当面幕を閉じる・・・と思われた。

 ところが訴追をした米国司法省と日本の国税庁にあたる内国歳入庁(IRS)の追及が汚職当事者との司法取引(資料提供による免責)で得た証拠に基づいており、その過程でブ会長本人の関与さえ疑われる事実が明らかになってきた。組織的な暗部の摘出は最小にして幕引きを計ろうとしても長年のボスであるブ氏が無関係であるはずがなく、ついにはブ氏の年内辞職と新会長選挙の実施とせざるをえなくなった。

 筆者は本欄で先に日本サッカー協会の例を取り上げ、協会が参加者個々人の心身と社会生活の健全化というスポーツの本来的振興ではなく、スポンサーをより重要視することによる選手とファン軽視という深刻な事態にあることを指摘した(『産経エクスプレス』2014年6月15日掲載「金銭市場主義 サポーター軽視のW杯」)。人気スポーツの多くはメディアの中継/報道によって人びとを熱狂させ、その螺線的上昇が用具やウエア業界だけではなく、スポットCMの単価をつり上げ、観客/視聴者を巻き込んだ巨大ビジネスとなっているという事実を無視しては真実に迫れないということである。

 そこからまず、巨大スポーツイベント開催権の獲得競争が起きる。同時にメディアによる熾烈な放映権取得競争も起きる。五輪から例を挙げれば、1988年のソウル五輪がそうであった。その開催権をめぐって争った韓国の首都ソウルと名古屋(愛知県)の競争の裏側でダーティな金銭問題を含め、旧日本軍の作戦参謀、日韓関係では中曽根康弘氏の名代で動いた瀬島龍三氏ら多くの怪しい政治ブローカーやフィクサーたちまでがうごめいた。それはFIFAでも東京五輪でも同じで、東京五輪招致委が広告会社電通を介して数億の金を開催都市決定の投票権を持つ国際陸上競技連盟関係者に配っていたこともそうした構造の中で起きたことだ。そうしたスポーツイベントの招致には政治家と広告代理店が、競技場とそこへのアクセス整備には土建と観光業者が絡み、個々の選手やファンはその利益収奪構造の中ではダシとしての役割しか果たしていないのが現代のメディアスポーツなのだ。

 ところが多くの報道にはこの視点が希薄で、関係役員の収賄や国際的なスポーツ用具メーカーの贈賄疑惑などに焦点をあて、挙げ句の果ては、有名選手の怒りの声を紹介して庶民の溜飲を下げさせているだけ、本当のワルたちはその陰で無傷でほくそえんでいる。FIFA関連でいえば、ブラジル代表のストライカーであったロナウド氏は自国のサッカー連盟会長を名指し、告発されたFIFA副会長との関係を理由に辞職を要求、元イングランド代表主将のベッカム氏は「サッカーは一握りのトップが牛耳るものではなく、このスポーツを愛する世界中の人々のものだ」。日本の本田圭佑氏は「ブ会長が辞める男気は、日本の管理者も見習った方がい・・・」と語っていることを報じただけ。そこで止まっていてはどうしようもないではないか。

 筆者は1971年から2003年まで、日本卓球協会の国際交流関係委員として、国際大会の組織活動をつぶさに見る機会に恵まれた。その間に日本人がITTF(国際卓球連盟)やATTU(アジア卓球連合)などの役員になる過程や、用具・ウエアメーカーが役員選出などにも深く関わっていることなども知った。筆者自身、卓球の発展のためのコーチ派遣や備品寄贈といった現地要請に応え、今回のFIFA問題でも収賄側として話題に上っているカリブ海諸国に行ってきたこともある。ただし、途上国援助自体はいいことで、悪いのは今度のような欧米諸国幹部による永続支配継続のための裏金買収やその過程でのピンハネで、当時の日本卓球協会側にそうしたことは断じてなかった。

 W杯や五輪の招致活動は国家的規模で動く。なとえば、1988年の五輪は韓国の首都ソウルで行われたが開催権争いをしたのは日本の名古屋市であった。自治官僚出身の仲谷義明愛知県知事(当時)は、中曽根臨調でNTTや国鉄の民営化を推進し、今日の政経権力(政治と経済が合同した権力)強化の枠組み作りをした元大本営参謀、経済人フィクサー、瀬島龍三氏などまでを取り込んだ韓国のロビー活動に負け、失意のうちに政界を引退、ソウル五輪開催を見届けたかのように自殺して果てた。

 くどいようだが、体育・スポーツ本来の目的である心身の健康、社会ルールの修得や選手の育成と底上げをほったらかしにして、一部スター選手を金で取引し、他はゴミ扱いというのはスポーツ精神と体育教育の精神にもとることだ。また、開催権と放映権取得に絡んだ汚職の摘発はいいことだが、現代の巨大スポーツイベントの開催は引退直後の選手などが技術的、経済的に担える規模をはるかに超えてしまっている。まず、その事実を認識したうえで、スポーツ基本法を文字通り勉強し直し、スポーツは身体と社会の健全化のために存在することを再確認しながら、そうしたイベントを円滑に運営できる人材の育成を制度的にしなければならないということだろう。

 また、当面の腐敗を防ぐ一つの方法は役員の多選を禁止することだが、メディアを含む業界ビジネスを透明化するための倫理と志の高い専門家を社会制度として養成することが基本になる。途上国援助に熱心ではない欧米の独善傾向、それに乗っかるスター選手たちの甘さ、途上国幹部を取り込んだ汚職の横行という今回のFIFAブ会長追い落とし劇の全体構造の把捉ができなければ、口先でいくらきれい事をいっても始まらない。その点でもメディア関係者の報道責任はきわめて大きいといわざるを得ない。

 2015年6月10日(水)産経エクスプレス(略称 EX)掲載 第196回 掲載時の表題は「汚職撲滅へ スポーツビジネス透明化急務」 
(わたなべたけさと、同志社大学名誉教授/メディア・情報学者)

追記:本稿を書いてから、FIFAと電通の「汚れた関係」を描いた以下の本が出た。田崎健太(2016)『電通とFIFA サッカーに群がる男たち』光文社新書。またこの電通についてはやや古い本だが、田原総一朗(1981)『電通』朝日新聞出版、がその社会的位置と構造をよく描いているし、もう少し日本社会全体との関係について知りたい人には、K・V・ウォルフレン著、篠原勝訳『日本/権力構造の謎』上下、早川書房、1990年(原著 Wolferen、1989)単行各2446円、文庫本(1994年)をお薦めしたい。

「パナマ文書」と調査報道、その2 2016年6月1日記

本欄前回で、国内では一連の『週刊文春』の政界モノ報道、そして国際的題材としては『南ドイツ新聞』(Süddeutsche Zeitung, 略称:SZ、ミュンヘンに本社)とICIJ(国際調査報道ジャーナリスト連合、米国のワシントンに本部、https://www.icij.org/)が明らかにし、この5月3日(2016年)にその大枠が整理され報道された、悪辣な日本を含む世界の富裕層の脱税手口を明らかにしたパナマ文書(タックスヘイブン=租税回避地パナマの企業設立援助法律事務所/モサック・フォンセカMossackFonsecaの顧客リスト)についてふれた。

両者とも典型的かつすぐれた調査報道(investigative reporting)だが、今回はパソコン(PC)と電気通信の特徴を最大限に活かした「パナマ文書」による越境犯罪報道の成功とそれを実現した過程について触れておきたい。

第1は、重大なネタあるいは極秘情報について、その保有者またはそれに近づける者は信頼できる人物/メディアにしかそれらを提供しない、そこから社会的に大きな意味のあるメディアビジネスの新展開が生まれているという事実である。つまりメディアが信頼されているときにのみ、そうした情報がメディアに「やってくる」ということだ。スノーデン事件の時にも英国のガーディアン紙とともに大きな役割を果たした『南ドイツ新聞』はドイツ最大の全国紙だとはいえ、その発行部数はわずか40万部ほどで、京都/滋賀の京都新聞や宮城県を中心とした河北新報といった地元紙などよりも小さい。だがそれを別の面から見れば、その新聞の報道価値が分かり、信頼している社会層に読まれる内容が掲載され、購読者がそうした報道に価値を見つけて購読していることでその新聞メディアの経営が可能になっている、言い換えれば、質の問題を軽視して、規模拡大もしくは維持あるいは減少防止だけをめざしていたのでは早晩、購読者から見放されてしまうということである。

第2は、『南ドイツ新聞』はパナマ文書の最初の生データを入手するとそれがあまりに膨大であること、そして世界の政財界の暗部をあまりにも赤裸々に明らかにしていることから、情報独占による「口封じ」などの妨害を怖れ、早い段階でその生データをICIJ(国際調査報道ジャーナリスト連合、日本では共同通信や朝日新聞の記者達も加盟)の協力を仰いで解析することを決定し、実行したことである。つまり、現在の世界で最大の政経権力(政治と経済が合同した権力)の悪事の実態を暴くことは1ジャーナリストはおろか、1メディア機関にさえ十分に対応、処理できる時代ではなくなっているということである。

第3は、1000万件(電子データで合計2.6テラバイトと伝えられる)を超える企業や組織が記載されている大量文書はコンピュータでしか扱えない(電気通信とPC発達のメリット)がそれらの電子データの解析過程はネットを完全に遮断して行わないと途中で漏れてつぶされやすい、つまり電子データの特異性とその秘密作業の安全性を確保して進めることが必要であるということだ。実際、関係者はそうしたやり方を慎重に実行し、世界を揺るがす情報をその暗部の連関構造まで確実につかみ、確認を済ませてから世界中に公表した。この一連の取材と検証があってはじめて信頼できる形での公表が可能になったということである。

第4は、最初のパナマ文書の存在事実の公表によってその案件の重要性に気づき、その全体構造を映像として残し、一般に拡散しようといくつかのテレビ局が早急に番組化する努力をしたことだ。この点では残念ながら、日本のテレビ局には案件の重要性に見合う番組を自主制作できるほどの実力はなく、すべて外部からのわずかな情報を大げさに仕立て上げ、日本の関係企業の活動の真偽を確認することなく、ワイドショー的に扱うしかなかった。

金と組織力という点だけでは日本のNHKにもやろうとすれば出来るはずだと思いたいが籾井勝人会長とその背後の権力層がそれを許さないためか、この29日深夜(2016年5月)のBSで、フランスのテレビ局制作によるドキュメンタリー(制作:PREMIERES LIGNES、プロデューサー:リュック・エルマン)を購入してやっとこさ、放映したのみである。日本の民放には今やこうした題材を具体的に制作、放映できるほどの人材と組織力がないばかりか、スポンサーになっている企業(ソフトバンクや楽天など)がパナマ文書に出てくるから、東京五輪誘致の裏金運びで一役かっている電通も同様だが、「皆様の受信料」をせっせと集めているNHKでもそうした力は徹底的に押さえつけられ、国民目線、放映とはなっていない。しかし、何人かの良心的制作者たちが今回のように①外国のドキュメンタリー作品を自局に購入させ、②多くの視聴者が見ない深夜ならば、放映できるようにすることぐらいはまだまだできる。

第5は、現代のメディア環境、社会情報環境は「グローバル化」と「過度の利益追求市場主義」の貫徹にその特徴がある。だが、今回のICIJや『南ドイツ新聞』が明らかにしたような企業としてのメディア機関の限界を超えた連繋があれば相当なメディア活動が可能だということである。今回名前の出た国際調査報道ジャーナリスト連合(ICIJ)の上部団体「公益調査報道センター」(The Center for PublicIntegrity、略称: CPI)は米国のNPOで、「力のある公的機関や私的組織による権力の濫用や汚職や義務に対する怠慢を暴き」「越境犯罪、汚職や権力の説明責任」などの問題に焦点を当てる組織で、日本では共同通信や朝日新聞も協力している。(この項終わり)
プロフィール

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Author:twatanab
本人略歴

渡辺武達(わたなべ たけさと) Takesato Watanabe, Japan
愛知県生まれ。同志社大学教授(社会学部メディア学科)を経て、現在、同志社大学名誉教授、日本セイシェル協会理事長、京都メディア懇話会会長。国際メディア・コミュニケーション学会国際理事、国内、国外での講演・執筆活動やテレビ出演、セイシェル関連でのテレビ番組コーディネイター等をしている。

メディア関係の社会活動として、同志社大学メディア・コミュニケーション研究センター代表(2003-7)、関西テレビ番組審議会委員(1996-2010)。京都新聞報道審議会委員(2000-2015)、など。(2016年9月現在)

Takesato Watanabe: Professor Emeritus at Doshisha University, Japan, Media& Information AnalystPresident of Kyoto Council on Media Studies and PoliticalScience=CMSPS)Kyoto International Council of International Association for Media and Communication Research=IAMCR Chairman of Japan-Seychelles Friendship Association (As of September2016)

著訳書:『ジャパリッシュのすすめ(朝日新聞社、1983年)、『テレビー「やらせ」と「情報操作」』(三省堂、1995年)、『メディア・トリックの社会学』(世界思想社、1995年)、『メディアと情報は誰のものか』(潮出版社、2000年)、“A Public Betrayed”(『裏切られた大衆』(2004年、米国Regnery刊、A. Gambleと共著)、『メディアと権力』(論創社、2007年)、『メディア・アカウンタビリティと公表行為の自由』(論創社、2009年)、『自由で責任あるメディア』(論創社、2008年)、『メディアへの希望 積極的公正中立主義からの提言』(論創社、2012年)、『メディアリテラシーとデモクラシー 積極的公正中立主義の時代』(論創社、2014年)、『メディア学の現在』(共編、世界思想社、2015年)など。

1980年代からテレビ制作に関わり、ファミリークイズやドキュメンタリー番組を作る。現在はCCTV(中国中央テレビ)英語国際放送などに衛星生中継で出演。専門はメディア社会論、国際コミュニケーション論。

Statement: Takesato Watanabe (as of May 2016)

Takesato Watanabe is Professor Emeritus,Doshisha University, Japan and President of the Kyoto Council on Media Studies and Political Science. After studying Journalism and Mass Communication at Doshisha University, he taught Journalism Ethics and Mass Communication Theory at that university for 25 years. He also acted as an advisor for International Department of The Japan Society for Studies in Journalism and Mass Communication. In his media career, he has been a TV coordinator for over thirty years, a newspaper columnist and a commentator for China Central TV since 2007. He has published over 25 books, including co-authored and edited volumes; also in English, A Public Betrayed: An Inside Look at Japanese Media Atrocities and Their Warnings to the West, published in the United States.

Among his major translations from English into Japanese are A Free and Responsible Press by the Commission on Freedom of the Press (1947) and Denis McQuail’s Media Accountability and Freedom of Publication (2003).

He wishes to contribute to making IAMCR a stronger organization that will play a role in preparing an information environment for world peace through media studies and practices.

Author: Takesato Watanabe, Professor Emeritus at Doshisha University, Japan.

Media & Information Analyst

渡辺武達(メディア・情報学者)

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